ダンスを駆使した伝え方を振り返る

踊ること=身体表現と捉えてきた私にとって、今回の手話を軸とした和田夏実さんとのトークは、改めて「表現とは」、また「踊りを通して伝えることとはどういうことか」、考えさせられる内容であった。

そもそも手話もコミュニケーションのための「表現」であるという視点がなかった。トークの中で改めて手話とはどのようなものか、そして手話も口話に並列し誰でも使用できるコミュニケーションツールではないかという考え方に触れた。確かに手話を聴覚障害をもつ方だけの意思疎通ツールに留めておくのはもったいない。言葉で表現しきれない、うまく言えない歯痒さは誰しも感じたことがあるのではないだろうか。和田さんのお話によると、手話は実際のモノや感情の動きをベースに、手や顔の表情で動きをつくり、その内容を相手に伝えている。人の感覚を、より抽象性を保ったまま伝えられる、コミュニケーションツール、そして表現方法なのだと新しい視点を得た。

では踊りを手話と横に並べて考えてみると、これら2つの表現にはどのようなつながりや違いがあるのか?踊りも言葉ではなく、身体全体や、もしくは音楽をともに使用し何かを伝える身体表現であるといえる。この手話と踊りの近似性・相違性については、トーク内では「マイムと手話の違い」として話題があがった。双方ともにイメージをベースとした芸術・表現であるが、マイムは表現されたイメージに対しその受け取り方は観客に委ねられているのに対し、手話は言語でありそのイメージは何なのか、詳細が伝えられていなければならない。そういえば確かにそうである、と納得させられる説明であった。と同時に、踊りにおいて伝えることとは何なのだろうと改めて感じた。踊りを含め一般的に芸術作品において、その表現に対する受け取り方は観客の感性や解釈に大きく委ねられている。制作タイプや題材に当然依るが、そのテーマが複雑化し、また抽象性がより高くなれば観客に伝えたいものはより伝わりにくい可能性が高い。その抽象性の高さをもって、改めて踊りで伝えたいものは何だろう。

ダンス作品を創作するとき、踊るときには、何を源泉として、トリガーとしているのか?純粋な和田さんからの問いかけに、改めて考えを巡らせた。何か主題としたい、伝えたい内容があって、それがダンス作品として表現されることもある。でも曲からインスピレーションを受けて主題を得て、作品づくりが始まることもある。かっこよさや美しさ、身体の限界を突き詰めることに重点をおいた作品もあるだろう。また踊り手としては、振り付け師の世界観に乗っかり身体表現をするほか、身体表現というよりも身体を音楽に合わせて動かすことを主眼とするような、ジムナスティックスな楽しみ方もある。改めて踊りを分解してみてみると、「伝えること」以外にも様々な側面があるようだ。

私は自分自身でダンス作品をつくったことはない。しかしもし何かつくるとすれば、身体表現であり観客に観て解釈してもらう以上、何か伝える内容が必要と感じていた。しかし改めて踊りとは、身体表現とは何か考えてみると、当たり前ではあったが、踊りはとても自由で、伝えたいものがなくてもよい場合もある。その抽象性が内容により幅をもたせて、表現の受け取り手に様々な解釈・考えをもたらす。反対に、手話に近い動きや言葉などを使い、伝えたい内容を鮮明化することもできる。その時々の伝えたいこと・表現したいことに応じ、踊りやそのほかの身体表現は幅広く対応するものであるのだと、改めて感じた。

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第3回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

1994年生まれ、元シンクロ選手。
会社員をしながらも踊ること・踊りへの関わり方をまだまだ模索中。