お稽古事・習い事のハレとケ

ハレとケとは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。

民俗学文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼年中行事などの「非日常」、(褻)は普段の生活である「日常」を表している。

ハレとケ – Wikipedia

ダンスを外から見つめる・語る 第4回「祭りと踊り」で、民俗学者の市東真一さんから「祭りの中で踊られる踊り」について話を聞いていて気になったことがある。

民俗学におけるハレとケの区分において、「祭り」とは言うまでもなくハレの場である。

祭りの中で踊られる踊りもまた「非日常」である。祭りの踊り手のほとんどにとって踊りとは、せいぜい集まって練習するのは一年のうち一週間程度で、祭りの時期にだけ踊られる特別なものだろう。

しかし私にとっての踊りというものは、日常に侵食しており、ハレともケとも完全には分けられないような気がしている。

祭りにおける「ハレ」の踊りと、私が現在取り組んでいる踊りの在り方は、どのように異なるだろうか。

習い事と踊り

そもそも私と踊りとの出会いは、「習い事」だった。

小学生の頃、私は週3回のバレエのレッスンを通じて日常的にダンスと接していた。その時点で年に一度のお祭りとはだいぶ様相が異なる。学校から帰ったら、踊りに行く。そのサイクルが一年中、何年にも渡って続くのが「バレエを習う」ということだった。

そのように子どもがバレエ教室に通うことは、特別なことではない。日本はバレエ教室の数がとても多いと言われている。2016年の調査によると、教室数4,640件、バレエ学習者は35.8万人にものぼる。
(出典:日本のバレエ教育環境の実態分析『バレエ教育に関する全国調査』基本報告

またバレエに限らず、海外との比較で日本のダンスは「お稽古事文化」だと言われている。

お稽古事文化における踊りとは、祭りを通して共同体の中で自然に受け継がれるものでもなければ、プロフェッショナルを目指して専門学校で学ぶのでもない。お月謝を払って先生に習い、発表会で披露するものである。

ここでは「お稽古事(習い事)」について、ハレとケという観点を交えて考えてみたい。

日本のお稽古事・習い事

もともと日本には古くから家元制度があり、茶道、華道、書道、能、日本舞踊などを特定の師匠から習うという構造が定着していた。

明治・大正期には「たしなみ」や「教養」「花嫁修行」の一貫として、経済的・社会階層的に恵まれた層を中心に、日本の伝統と西洋の芸術の双方を習うような「お稽古事」が普及していった。

下記、稲垣恭子氏による講演の記録から、戦前に関西の女学校を卒業した人を対象に行ったアンケート調査について話している部分を引用する。

学科の勉強とか読書の他に、習い事や稽古事をしていた人もかなり多かったようです。家庭で習いに通わせる場
合もありますし、学校で課外授業として開かれている場合もありましたけれども、その内容は、茶道が一番多く、茶道、華道、ピアノ、書道、琴、和裁と並んでいます。伝統的なものとモダンなものを両方習っている人も多かったようです。私の調査では、7割ぐらいの人が何らかの稽古事をしていて、半分近くの人は2つ以上をしている、というような状況でした。

甲南女子大学 国際子ども学研究センター 第 91 回公開シンポジウム お稽古からたしなみへ~女学生文化の系譜~

戦前の女学生の場合は「茶道、華道、ピアノ、書道、琴、和裁」といったラインナップであったようだが、現代のお稽古事・習い事はどのようなものだろうか。

2019年の学研の調査によると、小学生の8割が何らかの習い事をしており、その内容は多い順に「水泳、学習塾、通信教育、音楽教室、英会話、そろばん、書道」である。ちなみにダンス(バレエ以外)は12位、バレエは15位。
小学生白書Web版 2019年8月調査 学研教育総合研究所|学研

こうして見ると、現代の習い事の多くは、学校での学習を補強したり、プラスアルファの技能を身に着けるためのものが多いようだ。

発表会はハレの場か

水泳やそろばん、英会話など、多くの習い事は「日常」すなわちハレとケの「」に分類されるだろう。

では、ピアノやダンスなど、「発表会」がある類の習い事はどうだろうか。普段の稽古は日常の中で行われるとしても、1〜2年に1回の「発表会」は「祭り」と同じくハレの場として機能しているだろうか。

市東さんや井戸端会議メンバー安藤くんの話によると、ハレの場としての「祭り」とは単に非日常であるだけではなく、日常の規範が逆転することがポイントだそうだ。例えば権力者と肉体労働者との間で立場の逆転が生じたり、無礼講の宴会が行われるなど、規範が逆転したり秩序から解放されることによって、日常の憂さを晴らすような機能が祭りにはあるらしい。

習い事の「発表会」を思い出してみると、日常の規範の逆転という機能は薄いように思われる。

いくら生徒が主役と言えど、先生と生徒の立場が逆転するほどのことはない。また、生徒間のヒエラルキー(年功序列、実力差)は温存されるどころか、発表会の装置によってむしろ強調される。端役や年少者は序盤に登場し、華と実力のある者がトリを務める。

お教室の中で行われる発表会の配役・プログラム発表は、教室内のヒエラルキーが可視化される瞬間であり、それはまるで期末試験の点数発表のような緊張感であった。

しかし、稽古の成果を定期的に発表する場としての「発表会」は、少なくとも区切り儀礼としてのハレの機能は果たしているだろう。発表会という目標があることで、稽古にも身が入るというものだ。

「祭り」と「発表会」

ピアノとバレエを習っていた私にとって、発表会は「晴れ舞台」でもあったが、強制的に・一方的に評価を突きつけられる恐ろしい場でもあった。

個人間の競争心を煽ったり、ヒエラルキーを強化する面を鑑みると、やはり「発表会」は「祭り」と大きく異なるように感じられる。「発表会」は区切りや儀礼という意味ではハレの機能を備えている一方で、祭りのように誰も彼もが一緒くたになって搔きまわされるようなことはなく、個人に対する日常での評価を引き継ぎ、それを強化する働きがある。

習い事や発表会という仕組みがもつ特徴を挙げることで、これまで当たり前のように思っていた自分と踊りとの距離感を、少し客観的に考え直すことができた。バレエを習っていて祭りにはほとんど触れずに育った私と、祭りを通して踊ってきた人とのダンス観には、どんな違いが表れてくるのだろうか。

市東さんによると「お稽古事」に関する民俗学的研究はまだあまり行われていないらしいので、今後もこのテーマについては考察を続けていきたい。

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第4回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

振付家、ダンサー。立教大学映像身体学科を2010年に卒業。現在は主に2人組ダンスユニット「アグネス吉井」として活動。街を歩き、外で踊り、短い映像を数多くSNS(@aguyoshi)に投稿している。