わたしたちってば、作品の真意や意図に価値があると思っているよね |「ことばとからだの往復書簡展」レビュー

2021年11月27日〜28日の2日間、ダンス井戸端会議メンバーであるはらだまほの主催で「ことばとからだの往復書簡展」が墨田区の古民家、京島駅2Fと旧邸稽古場の2会場で開催されました。
「ことばとからだの往復書簡展」とは、前年の企画である「ことばとからだの往復書簡」で創作された7人の作家による映像作品に、はらだまほと熊谷理沙という2人の作家がパフォーマンスやインスタレーション、音声展示などで返答をした作品展です。ダンス井戸端会議からも作家や映像出演、スタッフなど多様なスタイルで公演に参加しました。普段、ディレクター、行政関係者、ダンサーとして異なる立場で文化芸術に関わる3人の眼差しで捉えたレビューを掲載します。

「私たちがおどりを観る時、何を観ているのだろう?」
「視覚情報なしに観客におどりを観たと言わせることが可能なのだろうか?」

そんなことを2年ほど前から言いはじめていた友人がいる。

それは、コロナ禍で進行する舞台作品の配信への流れや、身体性の欠如したオンラインでのやりとりを“苦痛”に感じた上での、彼女なりの時代への応答と捉えることもできる。
「私、本当に配信映像作品って最後まで見てられないんですよねー(笑)」とよく彼女は笑いながら言っていて、それは一見自分を卑下しているようにも聞こえるけれど、諦めにも似てあっけらかんとその感覚の根源となるものを探しているようでとても面白い人だなと思っていた。

コロナ禍、いやそれ以前からも「ことばとからだ」にまっすぐに、そして長年向き合ってきた彼女だからの問いに違いない。どれ、その彼女がつくる公演、ではなく展覧会があるらしい、行ってみようと思って行ってみた。

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2021年の暮れ、ことばとからだの往復書簡展と名付けられたその展覧会は、駅から散歩をするように15分歩くと辿り着く、京島駅2Fと呼ばれる、駅とついているけれど駅ではない元米屋の2階をメイン会場として開かれていた。

Photo by 野村稔

ちょっと緊張感のある2階の展示エリアに足を踏み入れると、なんだかひっそりと、そしてちゃんと作品群が息をしていた。こちらも自然と真剣勝負で挑まなきゃ、という姿勢になる。そこにある控えめな作品たちはこっちから手を伸ばさないと面白くはなくって、読み解いていく楽しさがあった、というのがこの展示を通りしての一番の印象。

それもそう、彼女からこんな話を聞いた。

「先日ある現代美術展に足を運びました。当日制作の方がとても親切で、作品について1〜10まで全て説明してくださいました。

果たして、それは良いことだろうか、、、、?
全部の説明を聞いた後、私は「じゃあ私は今から何を見れば良いのだろう、、、?」という気持ちになったのを、新鮮に思い出せます。

もちろん、説明を聞いてじっくり作品を味わいたい人がいるのも事実。
でも、作者の意図の答え合わせではなく、その人の身体や経験、思想がまず受け取る余地があっても良いのではないか?」

引用 ─────「ことばとからだの往復書簡展」|note https://note.com/mahoharada/n/n2c50fafbc700

このエピソードを彼女の口から聞いた頭でっかちな私は、「作者が分かってない作品の読み方があるし、誤読してもいいし、そのために批評があり展覧会があり鑑賞者がいるのではないか!」「説明されたとて眼前の作品を見る意味/価値がなくなったと思うのは失礼では!」と反射的反応をしてしまったけれど。
作品を説明してくれたその人も、良かれと思って一生懸命シェアしてくれたのだろうし、私は彼女の展覧会を見て「もうちょっとタイトルとかステートメントとか、ヒントが欲しいなぁ」とか口走ってしまった。

つまりは、「ちょうどいい謎解きのヒントがあった方が作品鑑賞って楽しめるよね、それが設計できてない表出は、技術が足りないのではないか」と思っていたのだ私は。いや、今も少し思っているところがある。

タイトルと、ステートメントと、メディウムと、使われている技法と、そもそものその作品のフォルムやモチーフから読み取れる意味と、よく観察していると見えてくる制作過程の痕跡、展示のされ方、作家の背負っている背景、近年の代表作、展示されている場所性、etc …… どうして他の方法ではなくそのように選択したのか/そのようにならざるを得なかったのか、ということを注意深く観察していく態度。
友人と感想を言い合うことでより楽しい鑑賞体験になるのは、情報が少ない作品/展示のされ方であることが多い。こちらから手を伸ばさないとその意味を、というか面白がり方すら教えてくれない作品。作品の外の知識と繋げて、もしくは作品に現れている僅かな痕跡から、自分なりに謎解きをして面白がる快感。一時期私は、鑑賞体験は謎解きゲームなのではないかとすら思っていた。

でも、それは鑑賞体験のほんの一部分、ある範囲の態度のことでしかない。

例えば、先日見た展覧会ではキャプションがとても充実していて、作品の描かれた時代背景や作者の前後の来歴まで書かれていた。情報が多い展示のされ方だ。だけれど作品の見方は規定されない。その作品本体からは知ることのできない周辺情報をその場で手に入れて、より作品を深く味わうことができたりする。
また一方で、タイトルと眼前にある作品の情報からは(私の力では)作家のやりたいことがギリギリ見えてきて、近年のインタビューなどを検索して見ると「やった、解釈合ってた!」みたいなことも起こる。これは作家が、自分の想定した鑑賞者にちょうどいい難易度設定をしたヒント(タイトル付や作品の中での参照可能部位)を散りばめている、とも言える。
余談になるが、舞台作品の配信は見方(主にカメラワークと同義)を規定されてしまうから彼女は最後まで見れた試しがないのだろう。鑑賞の仕方をとにかく規定されたくない/したくないということが、作品鑑賞においても作品制作においても一貫している姿勢が見えてくる。

はらだまほの場合、「作品の真意なんてもはやどうでもいい、100人いたら100通りの鑑賞体験を持って帰っていってもらいたい」という一貫した態度を取っていて、ややもすると乱暴で不親切であるかのように聞こえるが、それが彼女の優しさなのだと思った。それは、世界の読み取り方に長けている彼女の生き方からもうかがえる。(人から与えられた美学をいちいち参照しないと自信が持てない人だったらこんな展示はつくれない)
そしてそんな彼女のつくる空間は、当たり前だが、作品の真意や意図に価値を置いていない。置いていたとしても、その比重はとても軽いだろう。作品がどのようにつくられ、どのように鑑賞者の手に渡っていくのか。その、誰にでもひらかれた過程や問いかけそのものにこそ、価値があるのではないかということを突きつけてくる。

そういえば当たり前のように、作品の真意や意図に価値があると思ってしまっていたけれど、そうでもないよねと思う。自然にできた大きな岩の割れ目のように、作者(=この場合自然現象)の意図というものが極端に無い/分からない/隠された作品でも、自由に鑑賞して意味付けして、もしくはそのまま持って帰ることはできるよね。その自由さは時に人を混乱させるけれども。

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Photo by 野村稔

さて、ガイドラインが全然ない彼女の展示を真剣に鑑賞していくのは、それはそれで結構体力が必要で、私は作品数がこれくらいでちょうどよかったなぁと心地よい倦怠感とともに会場を後にした。
あまり主張の強くない、それでいて<これでしかない>展示のされ方をしている複数の映像作品を眺めながら、自分で好き勝手に物語を紡いでいける鑑賞者にとってはとても面白い空間になっていたと思う。

「視覚情報なしに観客におどりを観たと言わせることが可能なのだろうか?」

なんかそんなことどうでもよくなってしまった、そりゃ彼女の手にかかればできるでしょう。この問いに直接答えている「おどりのなか、もやのなか。」という作品(音声のみの作品)については、こちらのリンクに譲るとして。
それよりも、この問いをつくり出した彼女の<鑑賞者の力を信じる態度>、もとい<鑑賞者の力に任せきる態度>は、作品の強度を高めることとは真逆なことをやっているのではないかと心配していたが、展覧会を見た感想としては、作品の強度をよりはっきりとさせていたように思う。もっと簡単に言おう、「どう見てもいいよ、とそこに置かれた作品たちは自ずと強度と必然性を持ってそこに在った」ように見えた。その必然性がどこに依拠するかは最後まで分からなかったけれども。

さて、これから彼女のクリエイションの旅はどこに向かうのであろうか。楽しみにしたい。

秋山きらら

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この記事を書いた人

秋山きらら(本名)、1991年東京生まれ。2016年より身体企画ユニットを立ち上げ、作品を発表。2018年より始動したダンス井戸端会議で、好きなことを未完成の意見のまま語れる場にできることがヤミつきになり、言い出しっぺになることが多い。
身体表現が興味第一分野だけど、現代アート、コミュニティ、企画、書くことなどに興味あり。検索しても出てこない、その人の実感に基づく話を聞くのが大好き。動き、動かせの発明家になりたい。