踊る身体は誰のもの

他人の振付を踊るとはどういうことか

和田夏実さんとのトークの中で、「他の人の振付を踊る時の感覚、特にその振付がしっくりこない時や生理的に受け付けない時の身体感覚はどのようなものか」という問いかけがあった。

それに対して私は「他人の家のキッチンを使うような感覚だ」と答えた。

生理的に受け付けない振付に出会った時というのは、
「この流れで右を向くのはおかしい」
「音楽に対してこのリズムのとり方は気持ちが悪い」
「踊りこなすことができない」
といった違和感や戸惑い、硬直が小さく積み重なっていき、それが拒否や嫌悪の感情に繋がることがあるように思う。

その感覚が、
「蛇口の形状が自分の家と違う」
「箸をしまう場所がいつもと違う」
「醤油がどこにあるのかわからない」
という小さな違和感の蓄積と似ているような気がして、「他人の家のキッチン」と例えたのだった。

自分の身体にとって、振付が生理的に受け付けられる・受け付けられない、とはどういう現象だろうか。

また、他人の振付を踊る、とはどういうことか。

ある人物の振付

ここに、1つの振付を提示する。

  1. 椅子に座る。テーブルの上にパスタを1人前と、フォークを用意する。
  2. 左手を左太腿の上に置いて、頻繁に太腿をさする。
  3. 右手にフォークを持つ。フォークでパスタをすくい、顔を皿に近づけ、蕎麦のように音を立ててパスタを啜る。(その間、左手は⑵を続ける)
  4. ⑵と⑶を同時に行いながら、パスタを最後まで食べる。

これを実践して、もしくは実践している自分を想像してみて、あなたはどう感じるだろうか。

「いつもの自分だ」と思うか、「とても耐えられない」と思うか。それとも誰か近しい人を思い浮かべたりするだろうか。

この振付は、私がファミレスで遭遇した人のパスタの食べ方を書き起こしたものである。

あなたは今、私がファミレスで遭遇した「太腿をさすりながらパスタを啜って食べる人」のことを、どのような人物として想像しただろうか。

その人物に、なってみる。どんな感じがするだろうか。

身体を貸し出す

和田さんは、通訳を行う際の意識や身体感覚を「透明になる」「身体を貸し出す」といった言葉で表した。

ダンサーとして、他人の振付を踊る場合はどうだろうか。他人の振付を踊っている時、果たして自分は透明なのか。自分の身体を振付者に貸し出していると言えるのか。身体を貸し出した状態になったとき、「私」が明け渡すものとは、いったい何なのか。

ここで思い出されるのは、手塚夏子さんの「プライベートトレース」という試みである。

約10年前に手塚夏子さんは「(プライベート)トレース」というアイディアを発案しました。それは日常の人の様子を撮影し、その映像を緻密にパフォーマーの身体にトレースするというもの。舞台上のパフォーマーがまるで映像のように見える奇妙な体験は、当時、驚きをもって迎えられました。

手塚夏子の三夜「トレース」をめぐって | BONUS

この作品で手塚は、いくつもの録音された音声と戯れながら、日常生活の中で誰もが無意識にしているような動きを延々と執拗に反復してみせる。膝を抱えて座った状態で頷く動作と、椅子に座った状態で体を前のめりに波打たせながら腕で空を掻く動作、どちらもほんの数秒間の動きをきわめてリアルに、スロー再生しているように見えるのだが、それを導くように流される音声が三種類ある。

手塚夏子「プライベートトレース2009」
(小劇場レビューマガジン「ワンダーランド」内 武藤大祐氏による評)

誰かの動きを緻密に写し取ろうとする時、自分の身体の癖を極力消して「その人の身体」を生きようとしている時というのは、端から見れば「身体を貸し出している」「身体を乗っ取られている」というような状態に見えるかもしれない。

しかし以下の映像を見る限りでは、他者の動きをトレースすることで踊っている本人の身体の固有性が揺らぐとは思えないし、むしろダンサー(振付家)の主体性や能動性が際立つように思えるが、それはこれが振付家本人が踊っている「作品」だからだろうか。「乗っ取られている」というよりも、踊っている人の身体に特殊なエフェクトがかかっている状態、と言う方が近い感じがする。

ここで、別の想像をしてみたい。

自分の動きを細部まで完璧にコピーしている人を、目の前で見たとする。

この時、動きの主導権は自分にあり、自分(の身体)が相手を振り付けている、ということになる。
その場合に、「私があいつの身体を乗っ取ってやったぞ」という気持ちになるだろうか。

和田さんがzoomを通して行ったワークショップの中に、「1人の動きをみんなで真似する」というワークがあった。自分の動きが他の人から真似される番になった時に、たしかに爽快感のようなものも多少はあったが、「何かをしなければ」という焦りもあった。また、私が他人の身体を侵略しているというよりは、むしろ「好き勝手に真似されている」という感じがあった。これは「乗っ取り」の感覚とは程遠いような気もする。もっと動きの精度や練度が上がり、自分の動きに他者がピッタリと追従するようになれば、征服感のようなものがこみ上げてきたりするのだろうか。

私の動きは誰のものか

他人の振付を踊ることが仮に「他人に身体を貸し出す」状態になり得るのだとしたら、
自分で自分の振付を踊っている時、自分の身体は完全に自分のものだろうか。

1人で踊っている時のことを思い出してみる。

私は1人きりで踊っていても、それなりに楽しいタイプの踊り手である。その楽しさの中には、自分では想像もしなかった動きや形が自分の身体から飛び出してくる瞬間 というのがある。(それは即興はもちろんのこと、振付を踊っている中でも起こりうる。)

私の身体は「MikuMikuDance」のような3DCGではないので、座標軸や物理演算ではコントロールできない要素を多分に含んでいる。身体の複雑な構造、そして周囲の環境が、偶発的に自分の身体を思わぬ方へ動かしてくれる。私はそれを楽しむ。

そのとき果たして、私の動きは私だけのものだろうか。

私を動かしているのは「自分」だろうか。

自分で自分の振付を踊っている時でも、身体を誰かに(何かに)明け渡すことは可能なのではないか。

(例えば音に、物体に、風景に、無関係な第三者に、身体を貸し出した状態で踊ること)
(仮に「自分」の範囲を狭めてみることで、自分の身体のある一部分に身体全体を貸し出す、といったこともできるようになるかもしれない)

最終的には「自分とは何か」「自分はどこまで自分か」というような哲学的な問いに辿り着いてしまった。踊るという行為は私にとって、このような答えの出ない問いと不可分であり、その問いかけ自体を楽しんでいる節がある。

音を立ててパスタを啜る振付を、私はまだ試していない。家で1人きりの時に実践してみたいと思う。

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第3回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

振付家、ダンサー。立教大学映像身体学科を2010年に卒業。現在は主に2人組ダンスユニット「アグネス吉井」として活動。街を歩き、外で踊り、短い映像を数多くSNS(@aguyoshi)に投稿している。