伝える身体と聴く身体、おしゃべりする身体

手話の身体とダンスの身体の違いを紐解く

和田夏実さんが話している間、ふとした瞬間に動く手がとても綺麗だった。

以前「LISTEN」という映画を観た時、手が次々と情景や物語を紡いでいく姿に、手話とダンスの親和性を感じた。

ところが、以前聴覚に障がいがある子ども達が通うある学校を訪ねた時、手話とダンスの違いに衝撃を受けた。
それは決してマイナスな意味でなく、単純に「発見した」という意味の衝撃である。「ダンスと手話って似てるなあ」と思いながら訪ねた自分にとっては、大きな発見だった。

ただただ漫然と「違うなあ」と思ったまま放置していたが、その時の感覚を思い出しつつ、何が、どのように違うのか、和田さんの話から私なりに紐解きたい。

手話の身体1:伝える身体

身体に注目して手話を見た時に私がまず驚いたのは、手話の持つ「伝える」という意志だった。
手話を話す人自身が持っている主張や意志というより、手話という手法そのものが持つ「伝える意志」という方が近いかもしれない。
手話ニュースで見る手話も、見学した学校の授業で使われていた手話も、とにかくはっきりと明快で、「意味を齟齬なく正しく伝える」ということが目的とされていることがよくわかる。

考えてみれば当然である。
「危険だ!」ということを伝えたい時に、ダンスのように「どう受け取っても大丈夫~!」なんていっていたら、その間に危険にぶち当たってしまう。「危険だ!」は、即座に正しく「危険だ!」と伝わる必要がある。

ニュースや授業での手話は「情報を正しく、明確に簡潔に伝える」ことを目的としており、そう考えると、身体の状態としては「無駄な情報を含まない」ことがベストであることが想像できる。おそらく、身体のニュアンス1つで情報や印象に齟齬が生まれるのだろう。
そういった時の話者の身体は極限まで情報を削ぎ落とし、手話が持つ意味や意志のみを携えた、強固な伝える身体となっているように見える。

手話の身体2:聴く身体

ところが、和田さんが行ったWSの最中に登場した手話や、所々で和田さんが話す手話は、それとは少し違ったように感じた。
ユニークな形をした振り子のようなオブジェを手話で表現する時、その身体はダンスそのものだった。

前者の「伝える身体」とはどうやら身体の在り方が違うようだった。

おそらく、使用する言語(日本語や英語のような)や話者個人の特性による差はあるのだろうが、状態や質感を伝えるための手話は、対象物を身体もしくは手でトレースしているように見えた。
つまり、質感や雰囲気を伝達する時に使われる情報の要素は、「ゆっくり」「楕円の軌跡」といった言語情報ではなく、対象物そのもののようだった。

そういった場合、話者の身体は、対象物をトレースする、読み取る、すなわち聴く身体になっているのではないか。
和田さんの場合は、そもそもがインタープリターなので、相手をトレースする、相手を聴く身体が通常モードなのかもしれない。

よくよく思い出してみると、私が違いを感じたのは授業の様子であり、会話をしている身体ではない。
情報を正確に簡潔に伝えることに特化した手話がダンスと異なるのは当然のことである。
休み時間の様子まで見学していたらまた違ったかもしれない、と思い、
youtubeなどを使って、手話の動画をいくつか見てみた。
ところが、実際の会話となると、表情や口の形が果たす役割が大きく、手話はコミュニケーションを補助する記号のようにも見える。
ここでまたよくわからなくなってきた。

手話の身体とダンスの身体

とりあえず整理してみると、どうやら手話を話す身体には、伝える身体と、聴く身体、そして記号的な身体といった種類がありそうだ。
私はダンスは対話だと思っているので、この中では聴く身体が近いのだろうと思うのだが、かと言ってダンスの身体は聴く身体だけなのかと聞かれると少し言い澱んでしまう。
が、今回考察を巡らす中で、ダンスとは、おしゃべりする身体なのではないかとふと思った。
聴く身体と伝える身体を自由自在に操る身体。
伝える身体の強固な矢印と、聴く身体の柔らかな波のグラデーションの中を、のびのびと泳ぐ身体。
それはもしかしたら手話の中にもあるかもしれないし、ないかもしれない。

なんとなく振り出しに戻ってしまったような気がするが、少し紐解けたような気もする。これからも頭の片隅で考え続けたいことの1つとなった。

余談なのだが、私は右耳が聞こえない。このコロナ禍で特に困るのは、言葉の聞き取れなさだ。
これはすでに多く言われていることだが、以前は唇の形でなんとなく判断していたことが、マスクに覆われてできない。
読唇が使えないうえに、さらにビニールシートでもう一重遮断され、レジでは聞かれる項目が増えた。
そしていつも通りのボリュームで流れるBGMが、聞き取りたい音が鼓膜にたどり着く前に邪魔をする。

そうなってみて改めて思うのは、人々の身体の喋らなさ加減だ。
ポイントカードなのか、レジ袋なのか、支払い方法なのか、少しでも良いから身体言語を発してくれ……と
何度思ったかしれない。簡単なジェスチャーでも良いから。
これから先、おしゃべりする身体が少しでも街中に増えますように……。

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第3回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

振付家/パフォーマー。立教大学現代心理学部映像身体学科卒。
"からだのことば" "からだとことば"をキーワードに、振付/パフォーマンス/ワークショップなどさまざまな活動を幅広い世代に向けて展開している。