違うものと違うものをくっつけてみると、クリエイティブな何かが生まれるような気がしてしまうよなあ、なんて思いながら深夜にカタカタと文章を書いている。というのも、和田夏実さんが話の中で手話歌について「cross-modal(感覚横断的)な気持ちよさ」というような表現をされていたのがどうにも気になってしまったのだ。トークの中では視覚的な映像と聴覚的な音楽に合わせて太鼓を叩き、それらが一致することが複数の感覚を横断する気持ちよさにつながっている「太鼓の達人」の例が出ていた。視覚と聴覚、触覚の同期する気持ちよさというのは確かにある気がする。ただ、それって触覚なんだろうか。もちろん、それも触覚なのである。
触って何かをわかろうとするというのは、それこそ「把握」という言葉の字義的な解釈そのもののように思えるし、そういった「触れる」というときのような繊細で優しい感覚だけを触覚と呼んでしまいたくなるけれど、一方で機械のスイッチとして機能するようなやや乱暴に「触る」触覚も当然触覚だということに気づかされる。では聴覚や視覚はどうなんだろう。我々は聞いているのか、聴いているのか。そして見ているのか、観ているのか、あるいは視ているのか。
こうした違いを無視して乱暴に聴覚と視覚、触覚(あるいは身体感覚)を結びつける、というと乱暴に聞こえるかもしれないが、それは意外と気持ちのいいことでもある。戦前の文部省が一般大衆へのスポーツ普及のためにラジオ体操を導入したのは、音に合わせて一斉に身体を動かす気持ちよさを思想善導に利用したかったからだろうし、サッカーや野球の応援歌、ショースポーツでの入場曲、ワールドカップやオリンピックのテーマソングなどスポーツ観戦と音楽が結びついているのもそれが一体感と共にある種の爽快感のような感覚を生み出すからだろう。そういった「気持ちよさ」には良い面も悪い面もあるが、一方で善悪の評価を引きずって走り出してしまうようなエネルギーでもあるような気がする。
感覚を横断する気持ちよさを一旦スポーツから離れて考えてみよう。たとえばソ連のレフ・テルミンが開発した電子楽器「テルミン」は空中で身体を動かすことで音高などを操作できる、聴覚・視覚・触覚を横断する面白さを持った楽器だ。同じくソ連の開発した「アンス」という電子楽器は視覚と聴覚の一致がテーマになったもので、ちょうど現代のDTMのような線を黒板に書き、それを機械に通すことで音が流れるものだった。これも感覚横断的な面白さを備えている。
少し変わったところだと、アメリカの音楽家ハリー・パーチがいる。既存の音階に我慢できず、自分で純正律の43音音階を作った上、それを演奏する楽器まで自作したという奇才だが、その楽器の見た目は奇妙な面白さを備えており、パーチの奏でる不思議な音色と共に独特な体験を生み出していたようだ。これも感覚横断的な気持ちよさの一種だろうし、冒頭で言ってみたような「違うものと違うものをくっつけてみると、クリエイティブな何かが生まれるような気がしてしまう」という感覚に説得力を持たせてしまうような一例でもある。やっぱり異質なもの同士が結びつくとモダンでクリエイティブで気持ちいいものが生まれるような気がする。混淆万歳! これこそが多様性だ!
ただこの「異質なもの同士が結びつくことの化学反応」みたいな言葉にはちょっと警戒しておきたい。「異質なもの」という大雑把な言い方でくくっているその中味の方が重要なのに、この言い方ではそこが捨象されてしまうような気がするからだ。「何」と「何」が結びついて「どうなって」いるのか。
たとえばこのセルフカルチベートでもゲスト一人一人を「他者」ではなく「○○さん」として関わっていきたいですね、というような話。もちろん自戒を込めて。