《イベントレポート》ダンスを外から⾒つめる・語る [第3回]

全国各地のコンテンポラリーダンス・プラットフォームを活用した振付家育成事業『ダンスでいこう!!』2020<DANCE ARTIST VIEW 2020 セルフカルチベート -若手が自分で考える育成プログラム->事業として、2020年11月26日(木)に<ダンスを外から⾒つめる・語る [第3回]>をオンラインで行いました。
第3回のゲストは、インタープリターの和田夏実さん。引き続き編集者の中村悠介さんにオブザーバーとしてサポートして頂きつつ、ダンス井戸端会議の秋山きららが進行役を務めました。
今回は「インターフェースとしての身体」と題して、プチ・ワークショップなども挟みつつ手話の身体や通訳する身体について伺い、そこからダンスと絡めて様々な話が飛び交いました。イベント告知ページはこちら

テキスト:白井愛咲

ダンスを外から⾒つめる・語る [第3回] インターフェースとしての身体
和田夏実(インタープリター)×中村悠介(編集) × 井戸端メンバー(ダンス)

日時:2020年11月26日(木)20:00〜23:00 *このイベントは終了しました
場所:オンライン *Zoom + YouTubeライブ配信
参加費:無料

出演:和田夏実(インタープリター)、中村悠介(編集)、ダンス井戸端会議メンバー、他
進行:秋山きらら


企画・運営:ダンス井戸端会議
事業タイトル:「コンテンポラリーダンス・プラットフォームを活用した振付家育成事業『ダンスでいこう!!』2020」 
文化庁委託事業「令和 2 年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」
主催:文化庁、NPO 法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)
共催・企画: NPO法人DANCE BOX

前回と同様に、前半は少人数でのzoomトークをYouTubeで配信。後半は視聴者にも任意でzoomに入室していただいてのクロストーク、という構成で行いました。

まず始めにゲストの和田夏実さんから、自己紹介のプレゼンテーションと、簡単なワークショップを行っていただきました。

和田夏実(以下、和田): よろしくお願いします。いつもは手話通訳士だったり、通訳を通した「インタープリター」として色々なものを制作したりしています。「インタープリター」には色々な意味があって、学芸員さんだったり、植物や森林など自然のことを伝える職業も「インタープリター」と言ったりします。「手話通訳」や「通訳」を名乗るよりも正しさ誤読の行方 みたいなことに対して幅を広げていけるんじゃないか、と思って「インタープリター」として活動しています。

(画面共有で和田さんの幼少期の写真・映像を見ながら)私自身が、手話を第一言語にして育ちました。これは3歳の誕生日の時にお母さんと話している映像で、「3歳になりました、おめでとう」「ありがとう」と(手話で)言っています。こんな風にしながら手話を学び、保育園や小学校で日本語を獲得していく、という過程がありました。

特に成長していく過程で印象的だったのが、お父さんとの冒険です。歩く、泳ぐ、もぐる、座る、という手話が(手の形で)小さい人間を模しているのを利用して、私と父でいつも夜ご飯が終わったあとに、手で小さい人間を作り「冒険に出かけよう」と机の上で色んなものに登ってみたり、星空の中を泳いだり、ということがよく行われていました。

あとは、海外の方が家にいらっしゃる機会が多かったです。手話って世界共通語ではないんですけど、(魚という表現で、手を魚のように泳がせるなど)写実的なところがあるので、そういった意味では国同士の言語の距離が近いです。一週間や二週間、一ヶ月くらいすると、私の家の中で接触言語がたくさんできて、いつのまにかその人達の中だけの言語やサイン的なものが立ち現れてくる、ということがありました。

ミャンマーから来てくださった人が、「草がこういう風に生えていて、自分は銃をこのように構えて、見えたものを撃ったんだ」という戦争の体験を(手話で)語ってくれたことがありました。自分の身体に落ちた記憶をそのままにその場で表す、ということをしながら、一人一人の記憶を家の中でシェアしていきました。身体がメディアになっていることが、かなり記憶の中での身体動作と紐づいていると思うことが多く、そのようなメディアの可能性みたいなものについて考えています。

通訳しきれないもの

和田: 手話の世界と音声言語の世界、2つの言語のあいだを行き来しながら「伝える」ことを通して考えてきたこととして、難しいと感じることが日々あって。例えば母が「こういうものがあってさ」と(手話で)表した時に、それを音声言語で言おうとすると「四角い筒のようなもの2つと細い棒が4本並んでいて……」となってしまって、「それって何なんだろう」みたいなことが、言葉でとても言い表せない。逆に、音声言語で「花が咲いていてね」と言った時に、私はその花がどんな花なのか、できれば知りたい。その人の頭の中に飛び込んでいって、どんな形状の花だったのかを見ることができたら、私が家族に「彼女の見た花はこんなに美しかったんだ」と伝えられるだろうに…… ということがあったりして、言葉というものと、「像」の関係の難しさを感じていました。

変換しきれないもの、言葉にできないこと、伝えきれないその人らしさ、リズムや、間。言葉がパッとその人から出た瞬間には温かくてアツアツの唐揚げみたいに美味しそうなものが、私という通訳を通した瞬間に冷めた硬くて不味そうな唐揚げになってしまうことがよくあって、「それってどういうことなんだろう?」というのをすごく考えていました。「その人らしさを伴う『直接の対話』はいかにつくれるだろうか」ということが、インタープレートしていく中での命題にあります。

作品の紹介

  • Visual Creole(アプリ)
    • 写実的・映像的な言語である手話のノーテーション(記述)を考える
      • 表したものを残す、記述することから次に繋げていけないか
    • 自分の前にひかれた透明なレイヤーに絵を描いていくことで、イメージを重ねていきながら、自分の表現力を引き出すことができないか
    • 手話は空間、位置、量、質感を表現できる視覚的な四次元言語である
    • オットー・ノイラートの作った「アイソタイプ」というサインシステム(今のピクトグラムの原型)を参照
  • Shape IT! (カードゲーム)
  • Sigend (展示作品)
    • 3800人くらいの人から「眠る」の表現を採集
      • 腕を組んで顔を伏せる、顔の横で手を合わせる、手で「zzz」の形を示す、など
    • 音声言語では「Sleep」「眠る」など国によって異なるが、身体言語の世界では動きが近いのではないか
  • 子供向けワークショップ
    • (立体的に)家を設計する
    • 「おうちがある」→「玄関をどこにする?」→「上に玄関がある」→「玄関にどうやって登る?」→「階段をつける」……
    • ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』のように、視覚から視覚へ飛んでいく発想方法を探る
  • Qualia(カードゲーム)
    • 「エロい」ってどういうこと?あなたの中の「エロい」の定義を教えてください
    • 直接的でない様々な画像の中から、3枚選んでもらう
    • 「恐怖」「切なさ」「痛み」なども、その感覚の中身は1人1人全然違う
  • LINKAGE(カードゲーム)
    • http://linkage.games/
    • 割り箸のような棒を(自分の指先と相手の指先の間に)挟んで繋がりあう
    • 触手話(しょくしゅわ)から発想
      • 盲ろうの方との通訳の手段
      • 手を取りながら伝え合う
      • 緊張や眠気など、相手の感情や状況がだだ漏れになる

和田さんによるワークショップ

【その1】意識の遊び

  1. 部屋の中にある、一番複雑そうな物を持ってきてください
  2. その物を「意識して」持ってみてください
  3. 同じ物を、また「意識して」持ってみてください
  4. 手以外の場所で、同じ物を「意識して」持ってみてください
  5. プラスでもう一つ、そこに物を付け足してみてください
  6. 何かを介して、その物と繋がってください

現象学の先生曰く、意識とは違和感を感じる時によく現れ出てくる。無意識になっていくと、人は最短距離を進むようになる。無意識の時間が長くなると、1日が短く感じる。

意識の力で色々な創意工夫を行って、その中からベストなものを選択しながら、人間は進化してきたらしい。疲れたら意識をプツっと切ってみたらいいし、がんばってみたい日には意識を発散させてあちこちに向けてみると良い、とのこと。

【その2】伝える / 伝わる? 身体でデッサン

  1. 私が今から見せるものを身体でデッサンしてみてください

手話に関わるワーク。手話は、見たことのないものや名前の無いもの、質感のあるものを伝えるのに適している。(人それぞれの)様々な伝え方をもつことが得意な言語。

【その3】伝える / 伝わる? 視覚的に伝えることの可能性

  1. ルネ・マグリットの絵画「人の子」を見て、その様子を手を使って表す
  2. 帽子をかぶる。スーツを着る。リンゴが顔の前にある
  3. 3秒後、このリンゴは一体どうなると思いますか? やってみましょう

手で絵画を鑑賞することで、時間を巻き戻したり、先の世界のことを想像したりできる

【その4】真似をする

  1. 私(和田)の真似をしてください
  2. 安藤さんの真似をしてください
  3. (以降、同じように秋山、白井、中村の真似をしていく)

同調運動、真似をする、ミミクリ(ものまね・擬態)、うつす、ミラーニューロン的に身体が付いていく、といったことはダンスの世界でも手話の世界でもある。その気持ち良さと、危うさについて。このワークショップの瞬間には、身体をこの中の誰かに委ねていた。そのこと自体がどういう意味をもつのか、それが「自分」や「自由意志」とどう関係しているのか。

合わない人の振付

和田: 身体をみんなで動かすことの気持ち良さと気持ち悪さ、そのことの不思議さについて話してみたいです。

秋山きらら(以下、秋山): (ワークショップを受けて)それぞれの身体の使い方が滲み出る感じがありましたね。「私(秋山)の真似をしてください」という時に、わりとダンサブルになっちゃうなぁとか、逆に安藤くんや中村さんは記号的に行くなぁ、とか。「踊っていて気持ちいい」とか、安藤くんの動きをしていると「不思議さが自分の身体に残る」とか、そういうことを感じました。それを振付やダンスに結びつけると、「この振付家の振付はやりやすいけど、この振付家のは覚えるのにも時間がかかるし動きにくい」ということがあるのはなんでだろうな、と思ったりしました。

和田: それって、リズムみたいなものが違う、って感じですか?

秋山: 「こんな動かし方したことない」とか。

和田: 生理的に無理な瞬間もあるんですか?

秋山: 私は「振付家が言ったことは何でも一旦吸収して、自分なりにできないとダメ」という大前提のマインドのがあるので、「これは拒否」ということは滅多にないです。

和田: その時の身体って、それは「私」なんですか? それとも、もう少し動かしやすい「メディア」? 例えば何かを書いている時の「手」と近いのか、それとも自分で何かを選んだり考えたりしている時の身体に近いのか。状態としては、「振付がある」という時点で「書く」みたいなものに近いような気もしつつ、それぞれがダンスを職業だったり好まれてやられている、その時の身体って誰のものなんだろう、っていう疑問があります。

秋山: 私はクラシックバレエで全国入賞レベルまでは頑張った時代があったんですけど、その時にずっと言われてきたのが「バレエ団に入ると振付家の色に染められる。染められるように、真っ白なTシャツでいなさい」と。「基礎能力が高いダンサーをまず目指しなさい」と言われていました。それを目指すとなると、「自分で表現したい」ではなくて、「この振付を一番良く見せるにはどうしたらいいか」、意識を脱ぎ捨てて、もう「付いてく」「そうなる」みたいな感じで舞台に立ったり、振付を自分の身体に入れたりしてました。

白井愛咲(以下、白井): 合わない人の振付って確かにあって、それを踊る、踊らされる時の感じを単純化すると、「縮んだあとに伸びない」「曲げたあとに伸ばさない」みたいに感じられる、というか、「え!?」「こっちに行ったらこっちでしょ?」「しっくり来ない」という感じがある気がします。それは日常のシーンに例えるとしたら、「お箸をどこに仕舞う」とか「コップを使ったあと水を切るか切らないか」とか、そういうことを自分の普段やっている事と反してやらなきゃいけない、「人の家のキッチンを使う」みたいな感じかもしれません。でもその感覚って可塑性があって、「合わないな」と思った振付家の話をずっと聞いていて「縮んだあと伸ばさない理由」がわかってきたりすると、ちょっと感覚が変わることもあると思います。

和田: 通訳も、というか通訳のほうがむしろ、仕事的にはかなり「この瞬間はあなたはあなたではありません」というか……。私は私としてその場にいるんですけど、その場ではその人のことを伝えるのが仕事なので、「他者に身体を貸し出す」という状況になる。その時に、全肯定しないと(身体に)入れられないじゃないですか。身体が拒絶するというか、「私の身体を、この人に貸す!?」みたいな時があっても、その人のことを全肯定していかないと、職業的にどうしようもない。そういう時に、ちっちゃい時のその人のことを聞いたりします。「小さい頃の名前のない遊びを教えてください」とか、どうにかその人を「好きになれそうな時のその人」に戻していく。そういう好きになる努力を、いろんな角度でします。身体に入らないことも、意図がわかると入ったりとか、そういう話にも近いのかなと思ったりしました。

先を読む、持っていかれる

和田: 安藤さんの格闘の研究も気になっているんですけど、闘いとダンスっていうのはどんな風に関係するんでしょうか。闘いの身体は「勝つぞ!」みたいな感じで、めっちゃその人が、居ますよね、その場に。

安藤行宥(以下、安藤): 格闘というか、僕は空手の研究をしています。空手の発祥は沖縄なんですけど、沖縄の方では全然試合をしないで「型」だけをずっと伝承している人たちがいます。一方で、ルールがあってポイント制の「スポーツ」としての空手をやっている人も、殴って蹴ってノックアウトするような「格闘技」の空手をやっている人もいて、その幅が面白いなと思って研究しています。格闘技はお互い相手に合わせて動くというところがあって、相手を動かすし、相手に合わせて動くという、そういうコミュニケーションですよね。その揺らぎについて、さっきのワークショップを絡めて言うと、ある程度予想ができた時って、ちょっと先走っていきますよね。例えば白井さんが、ここ(右下)からこう(中央に)上がったら、「次はどっちかに下りるんじゃないか?」って思いながら準備していたり、顔を左右に振り出した時にはもう白井さんが振っているのに合わせて振ってはいなくて、明らかに自分の意思で顔をとりあえず振ってみながら次の動きを見ている状態。だから、単純な真似じゃないですよね。いったん相手を追い越すというか、「先回りしよう」と意識しながら真似していくところがあって、その辺は(格闘技と)近いなと思いました。

あと、身体をいかに自由に動かすか、「この人に従いたい/従いたくない」、誰の真似をするか、という話題に関連して。日本の武道だけではなく色々な身体文化に「型」があると思います。「型」は人称がないこと、匿名性というのが条件の一つとしてあるんですけど、だからこそ意外とみんな素直に聞いちゃうというか、ノリノリで真似しちゃったりするところがあります。そういうところで戦時中は「思想善導」に武道が利用されたりしていました。身体を先に合わせて、そこに思想を付けていくという。従うことの暴力性という話が出てきましたが、そこに不快感を感じるのは重要なんだろうなぁと思いました。

和田: 身体が持ってかれちゃうことってあるじゃないですか。触手話は結構それで言うと危うくて、その人が雪崩れ込んでくるのを、手が繋がっているから止められない。もちろん手を離すことはできるんですが、かなりだだ漏れで両方が行き交っている状態があって、その時に手が繋がったまま、こう(力を込める)腕相撲じゃないですけど、こうなったとしたら、身体は持ってかれてしまうだろうなと思います。

重さと軽さ

中村: 前に和田さんが「うつす・うつさない」という話をされていたじゃないですか。訳すときに「その人を入れる」んですよね。一方で、通訳したのも忘れるくらい、身体に残らない人もいる。

和田: そうですね、そうなんです。

中村悠介(以下、中村): 演劇の役者さんから「長ゼリフを覚えるよりも、前の公演のセリフを抜く方がしんどい」という話を聞いたりしますが、そういうこととも似てるんでしょうか。イタコ状態になるプロセスや、「うつす」ということについて、もうちょっと詳しくお聞きしたいです。

和田: 「軽さ」と、「うつしあい」の話を少しします。さっきお伝えした「名前のない遊びを聞く」というのが結構キモなんです。小さい時の名前のない遊びを聞くと、「白線の上を歩くの好きでした」とか、「走って階段のギリギリの所で止まるのが好きでした」とか、みなさんヒートアップされて、すごく良い遊びが出てくるんです。すると、その人のこだわりポイントというか、大事にしている芯が少しずつ見えてくるような気がします。なんとなく、その人にとっての美学みたいなものや、美しさ、愛おしさがどこにあるのか、少しずつ見えてくる感じがするんです。それは「銀行員」などの職業的なラベルよりも優にその人らしさを表していて、それを手がかりにしながらその人の語り口を聞くことをしています。

その時に、自分でも反省しつつなんですけど、「その人の言葉かどうか」、言葉の重力の乗っかり具合がすごく重要です。その人が身体を通して到達したであろう言葉に関しては、重くて重くて、とても私なんかの身体を通せない。出産体験談みたいな話を、子どもを産んだことのない私ができるかというと、やっぱりそれはすごく難しくて。出た瞬間の感覚とか、その痛みをもらったことのない状態、かつ、私がいつか子どもを産んだとしてもその痛みとその人の痛みは違っているという時に、その痛みを想像することはすごく難しいんですけど、そういう話の方が、やっぱりすごく通訳の重さとしては重いですし、私の身体をインターフェースにした時に、「受け取ってしまった」あとの「出て行かなさ」や、残るものはあります。

逆に軽いものというと、自己啓発的なトークイベントでの軽さ、借りた言葉を連ねて伝えることの軽さでしょうか。言葉自体の強さはあるんですけど、その人自身の強さではなかったりします。借りてきた言葉の方が、スーッと出て行きやすいです。形にしていくだけなので、そんなに難しくない。

喉から乗っ取られる?

中村: 訳す人によっては英語の通訳などでも似たようなことはあるのかもしれないですけど、和田さんは「身体を使う」という(手話の)特殊なところを活かして、インタープリターとしての制作をされていますよね。

和田: そうですね。逆説的になるかもしれないですけど、個人的には、音声から手話の方がラクなんです。ちょっとグラレコ(グラフィックレコード)に近いかもしれないです。身体で描いていく、空間に配置していく、みたいな。逆に、手話から音声の通訳の方が、身体の中を通って出ている感じがすごくして……。昔、伊藤亜紗さんから聞いた話なんですけど、音読というのが奴隷の仕事だったらしくて。音読をすることは思考や読む時間を支配されるから奴隷の仕事で、聞く人は貴族、という関係性があったみたいです。こっち(手話から音声言語への通訳)の方が、食べてる時とかに近い感じがして、生理的に結構しんどい気がします。個人的な意見ですが。

秋山: 私は文字起こしをする時にGoogleの音声入力をよく使っているんですが、片方のイヤホンで聞きながらその人の言った言葉を自分の声でパソコンに向かって喋って、パソコンに文字起こししてもらっています。そうすると、喉の筋肉を使ってその人が乗り移って言葉を喋っている感じがして、「えーっと」などの言葉遣いも同じように起こすと、かなり支配された感じがあるなぁと思います。そのことと、振付や動きを真似することの、どっちが支配されてる感じがあるかというと、喉を通して言語や音声を使う方が、違和感や乗っ取られた感があるような気がします。

コンタクトインプロと触手話

和田: 例えば、ダンスの場で「相手を叩く」という表現が出た時に、罪悪感みたいなものを覚えたりするんでしょうか?

白井: 私は全然平気で叩けるタイプです。一方的に危害を加えるような振付であれば私はわりと平気で、それよりも、相手から受け取って返さなきゃいけないことのほうが個人的には苦手です。

和田: それは、「受け取る」というプロセスを挟むからですか? 自分の意思みたいなものが入りそうだからですか?

白井: 先ほどの話にあった触手話にも近いような、コンタクトインプロヴィゼーションが私はすごく苦手なんですけど、たぶん「入ってくる」のが苦手で、相手を岩だと思えば何でもできるんです。相手を人だと思っちゃうと「ウッ」ってなっちゃう、という個人的な感覚があります。

和田: コンタクトインプロと触手話はたぶん本当に近いですよね。近いというか似ているところがあるなと思います。

安藤: 「触覚的」を表す言葉に ハプティック(haptic)と タクティル(tactile)というのがあります。タクティルの方はどっちかというと「触る」に近くて、ハプティックの方は「触れる」に近い。ハプティックは柔らかいというか、触れることで形とか、それこそ触手話的に相手の意図を感じ取るのに対して、タクティルはガサガサと触っていくというか、当たっていくような触り方で、コンタクトの「タクト」とタクティルの「タクト」は近いと思います。コンタクトインプロヴィゼーションはハプティックな触り方はしていないと思うんですが、どうなんですかね。 相手の皮膚の質感を感じる触り方というよりは、エネルギーや、相手の重さ、動きを感じている印象があって、中にはハプティックなものもありますが、タクティルなタイプのコンタクトインプロを見る機会の方が多いような気がします。コンタクトインプロと触手話って本当に似ているんでしょうか。

和田: 触手話自体は、結構タクティルな気がします。というのも、言葉を表す動きや表現のルールがあったりするので、それを2人で向かい合って創るというよりは、相手を動かすことに近いです。相撲……みたいなものにも近いというか、相撲なんだけど、状況や情景を受け取っていく作業に近くて、そこで細やかな表現をお互いにし合うということはそんなに無い気がするんです。ただ、例えば好きな人とか、おじいちゃんとかおばあちゃんとか、私はおじいちゃんに毎朝ハグをするんですけどそういうハグとか、おじいちゃんに対する自分からの矢印としてのハプティックと、触手話を受け取っている時の受け取り方はかなり異なっています。あ、それで言うと、指点字はハプティックなのかもしれないです。(相手の)指に(自分の指で)点字を打っていくんですけど、「終わったよ」「やめるよ」とか、あとは触手話をやっている時の微細な「うんうん」「わかる」という相槌は、すごくハプティックな共有性を持つような気がします。触手話はコンタクトインプロほど相手と自分との間を探っていなくて、体性感覚を活かして、2人の間で出来上がる体性感覚に寄り添いながら像を頭の中で描く作業が触手話なので、もしかしたらタクティルよりもイマジネーションに近いのかもしれないです。

安藤: 彫刻家の中ハシ克シゲさんの『触りがいのある犬』という作品があるんですけど、中ハシさんの愛犬を触った感じをイメージしながら触覚だけて作った犬の彫刻作品で、それに対して「ハプティック」という言い方を授業の中でしていました。それに近いイメージを触手話に感じていたんですけど、意外と触手話の方がコンタクトインプロに近かったというのが改めてわかってよかったです。

踊りのトリガーは何なのか

後半からは、YouTubeで聴講していた人も任意でzoomに入室し、クロストークを行いました。

中村: 和田さんからダンサーのみなさんに聞きたいことはありますか?

和田: この間、小野寺修二さん・藤田桃子さん・南雲麻衣さん・數見陽子さんで対談をしていただく機会がありました。「マイムと手話ってめちゃ似てる」と言われ続けてきていて、私自身もマイムと手話の違いをうまく説明できなかったんですけど、実際に対談してみたら全く違うことがわかりました。マイムは観客側の想像に委ねられている芸術だと仰られていて、例えば飲み物を飲んで「プハーッ」と言った時に(マイムの場合は)その飲み物が何であってもよくて、身体に流れた何かを、どうその人自身の身体で表すかがすごく重要な芸術だと。でも手話は「ビール」は「ビール」と表さなきゃいけないし、「サイダー」は「サイダー」と表さなきゃいけない。それは「伝えられたか」「伝わったか」ということがどうしても存在する手話という言語と、観る人側にどんなイメージを喚起させたかを委ねていくマイムという芸術との大きな違いだと思いました。とは言いつつ、2つともイメージを題材にしている言語・芸術だな、と思っています。そこでダンスの振付ということを考えた時に、「トリガーを何にするのか」がキーになるのかなと思いました。音楽がトリガーになる場合が多いとは思うんですけど、それはそもそも何故なのかというのと、トリガー無くして振付というのはありうるのか、そのあたりを聞きたいです。何をヒントとして踊り始め、その場で何を共有していく表現なのか。

秋山: 私がよくストリートダンスを見て思うのは、「これはカッコいいな」と。スポーツの同調と同じような高揚感を喚起することがストリートダンスは得意だなと思ったり、一方でバレエは彫刻的な、完璧な気持ち良さや綺麗さを美術品としてそこに置いておくような感じを受けます。翻って今みなさんがやっているダンスのキッカケや主題を考えると、例えば安直なモダンダンスの悪い例としてよく出されるのは、感情主体でテーマを設定して、「こういう感情を表現したい」という時にそれに適した音楽を選んできて、その音楽がトリガーになってその感情表現を身体に乗せていく、みたいなパターンが多いのかなぁと。「そこから逃れたい」と考えた時に、みなさんは何をトリガーにしているんですかね。

白井: 音楽がトリガーになりやすいというのは、先ほどのGoogle音声入力で身体が乗っ取られる話と少し関係があると思っています。聴覚情報が身体に及ぼす影響ってたぶんすごく大きくて、声帯の筋肉が聴こえてくる音楽に反応するとか、単純に音楽は人の身体を動かす力が強い、っていうのがまずあるだろうなと。そこから離れようとしているアーティストもたくさんいるわけですが、私個人的には風景の形などをトリガーにして踊ることが多いです。あとは「トリガーを作らない」ということになるのかはわからないですが、偶然性に振付を任せて、観客と一緒に振付家自身もそこで起こっていることを観察する、といったスタンスもあるのかなと思ったり。「トリガーをどこに発見するのか」というのは近代以降のダンスの歴史の中で色々と取り組まれていることだと思います。

和田: クロスモーダルというか、感覚が重なる時ってめちゃくちゃ気持ちいいじゃないですか、動物的に。『太鼓の達人』とかもそうだと思うんですけど、一致することの気持ち良さって、めちゃくちゃあるなぁと思っていて。「手話歌」って、ろう者の世界ではあまり良いとされていなくて、イメージとしては散文詩というか「歌詞画」を渡されているのに近い。気持ち良さそうにノってる人がいて、それを見ている状態や、歌詞画がぽんぽん動いているけど音は聞こえていない状況に近くて、たぶんろう者の皆さんからは評判が悪かったりもするんです。けど私は個人的に、親に(手話で)音楽を見せたいという意思を持ってするわけじゃなく、夜道で誰もいないことを確認してから一人で手話歌をやったりとかしてるんですよ。それはかなりカラオケに近い感覚になることがあって、言葉を(手で)置いていくことや、音をトリガーにして身体と一致させる気持ち良さ、音と手の指の形は距離が近い気がしていて、それがすごく気持ちがいいというのがあります。で、気持ちいいのはダメなのかというと、ダメじゃない気がする。けども、なんだろう、新しいことと自然なことの距離、みたいなこととか、そういうことだったり……。

秋山: 新しいことと自然なことの距離、すごく良いなと思います。「踊りたい」タイプのダンサーを見ていると、やっぱり「なんだかんだ言っても音に合わせて運動するのって気持ちいいよね」というところはみんなある気がしています。レッスンで身体を動かして、みんなと共鳴して同じ振りをやっていると、単純に楽しい。嬉しくなっちゃう。それもありつつ、それを表現として舞台に乗せる、自分の作品として発表することになった時に、そこにコンセプトや「何がトリガーになっているか」「何故それをやるか」が求められる。「気持ちいいからやりました」だけではよろしくないとされる、そこの距離感はあって。だからこそ「日常的にダンスをしてます」みたいな人と、「舞台で作家性を出してやっていきます」という人と、色々なバリエーションが出てきているんだろうなと思います。

はらだまほ(以下、はらだ): 「身体が誰かになる」という話題で、演劇の人は「降りてくる」ことが多いけどダンサーはそんなに……という話が出ていたのですが、ダンサーの場合は「音楽が降りてくる」人が多いのかなと思いました。私は現代舞踊出身なので、さっき秋山さんが言ったように、表現したい主題があって、そこにぴったりくる音楽を探してきて、実際の振付のトリガーは音楽が担うことが多い世界で15年以上やってきました。それとは異なることをしたいという気持ちがあり、今は言葉を使うことが多いです。言葉をトリガーに振付を作る。あと、即興の場合だったら、周りから受け取るしかないところがあったりします。

風景のイタコ

和田: 今回みなさんへの質問の中で「トリガー」と言ってしまったんですけれども、前に砂連尾理さんのヒカリエでのトークとダンスを拝見したりして、「共在する」「共鳴する」と言う方が近い瞬間も結構あるのかなと今のお話を伺う中で思いました。「トリガー」だとスタート地点のフックみたいな言い方ですけど、それよりも風景と溶け込むとか、その場やその空間に溶けようとしていく、みたいなことに身体がかなり「使える」じゃないですけど、身体が空間に馴染むこととか、いるべき場所に移動するとか。それはたぶん「トリガー」ではなかったりして、その感じが面白いなと思いました。

中村: 風景のイタコになるじゃないけど、トリガーとして「何か」があってそれを翻訳しているというわけではなくて、そのものになってしまおうとする行為。それは「自分をなくす」というか、それでも絶対自分の身体は残っちゃうと思うんですけど、そういうことなのかなと思いました。

和田: 私、たまに悔しくなることがあるんですけど、音声言語と視覚身体言語を両方やっていると、音声言語の思考回路が「名前をつける」ところから発しているなと思うことが多いんです。物事に名前をつける、現象や事象に名前をつける。名前をつけると、そこに存在し始めるじゃないですか。呼べるようになるし、引っ張り出せるようになるから、わかったような気がしてしまう。言語学や生物学のように分類をしてグルーピングしてマッピングして……。でもそれって、「分けた」ことと「わかる」ことは同じなのか?「わかる」って漢字で「分ける」って書くじゃないですか。でも、そうなのかな?と思うことが結構あって。手話ではトレースしたり、うつしたりするような表現が多いので、もし手話的だったり身体的な方向での伝承や学びみたいなものを、学問と拮抗できるくらい強靭な残し方をもって私たちが残せていたら、言葉でのわかり方じゃないわかり方とか共有方法が拓けたんじゃないか、と思うことがあって、そういう時に「悔しい!」ってなったりします。

中村: 「伝える」ことに対して本当に言葉(音声言語)がベストなのか、という話ですよね。

和田: そうです。かつ、「分けた」ときに削ぎ落とされるものがすごく多い。でも歴史などは全部言葉で紡がれていて。あまりに強いというか、気持ちが負けそうになる時があります。今の「うつす」とか「共在していく」っていう話を聞きながら、風景に溶け込んだり、様々なことの中で最適な位置や場所を空間を探っていくことで、みんなが繋がりあったり残しあったりしていたら、どんな景色が拓けてたんだろうな、と思いました。

手話における詩的表現

YouTubeチャット欄からの質問:体が動くことと感情表現の関係性の話が面白いと感じたのですが、手話における詩的表現や、喧嘩したりするときの固有性や和田さんが感じられていることを少し伺ってみたいです。

和田: 「伝える」ということを前提に必ず持つ、というところが手話はかなり独特だなと思っています。デザインも「伝える」という役割を持ちますが、「整理する」とか「視点を発見する」という要素が強いような気がします。アートも伝える場を作る必要はありますけど、「伝わる」ことが目的ではない。言語はもちろん伝えるためのメディアであり、そのために作られた思考ツールなので伝えることが前提にされていますが、手話の場合はエネルギーの発し方が、こういう感じ(身体から自分の正面に向かって)で、ぶわっと出していく。今あなたに「やめて」と言いたい、やめてもらうために身体を動かすとか、そのエネルギーの発し方は固有性を持つと思います。手話での喧嘩は、すごくお互いの熱が行き来している気がします。

詩的表現に関しては、手話の世界は「見立て」とすごく相性がいいので、(手で動きを作りながら)「海にザブーンと潜っていった」「波に溢れて日が照って」みたいな感じで、手でその場にどんな情景を作り出せるか、絵画を三次元的に作っていくことに近いような気がしています。手話ポエムと呼ばれるものだと、例えばペットボトルみたいな物をここに1個置いた時に、そこから溢れて、ここの全体が海になって、一人の人が潜っていって…… というように、1個の物をモチーフに「そこからどんな物語がスタートしていったか」というのが、今の手話の世界での芸術表現やポエムに多い気がします。音声言語や音楽、ダンスとの違いとしては、一人では出てこないということがあります。二人、三人、誰かに何かを伝えたいというところを起点に手話が生まれていく。あとは音声言語と違って、考えている時や手話で話そうとする時に、頭の中で手話が動いているのではなくイメージや映像が浮かんでいて、それを触ったり捕まえようとしている気がします。

中村: 頭で考えたものを伝えるということではなくて、特にポエムやアートの表現では、手を動かしながら考えるんですよね。それは喋りながら考えることとか、彫刻家が作りながら脳と身体が調和して一体化しているというようなことですよね、きっと。それを無理やりダンスに置き換えると、即興のダンス、になるんでしょうか。

和田: ウィリアム・フォーサイスのダンスカンパニーの舞台を拝見していると、ルールをすごく作るじゃないですか。そのルールを誰かが「ある」ことにしたら、そこからそのルールがあることになる、あれにはちょっと近いのかなと思います。

中村: その積み重ねが、ホームサインみたいなことになっていくんですよね。

和田: そうだと思います。「ここでは『水』をこれとしよう」みたいなことを繰り返していき、その場での言語みたいなものが立ち現れてくる。それは、振付を共同制作しながら三ヶ月過ごすようなことと、もしかしたら近いのかもしれません。

秋山: 同じ振付を与えられて練習をしたり揃えていく過程で、見えている情景を統一することで、世界観や表現が深まることはあります。みんなの中で「魚がいる」ことが共通の認識としてある場合に、その「見えている海」を統一するような作業はよくやります。そういうことをすると、動きの質感が揃っていくので。

白井: 手話における詩的表現の話で、ペットボトルの水から海が広がるようにイメージを繋げていくお話がありました。そういうことが多いということは、飛躍があったりすると、音声言語に比べて伝わりづらかったりするんでしょうか。例えば「線路上にマンボウが泳いでいる」とか、音声言語だとパッとできるじゃないですか。それは「分けられている」からできることだと思うのですが、違うパズルのピースを持ってきてガチャっとつなげることができちゃう。

和田: 見立てで全く違うものを持ち込むことは、得意というか、面白いとされると思います。「線路の上に魚がいてさ〜」と急に言ったらビックリしちゃうと思うんですけど、(手で情景を作りながら)線路が見えていて、魚が泳いでいて、みたいな見立て遊びはたくさん起こるような気がします。ただ、この間ある現代美術の作家さんが、抽象的な言葉と抽象的な言葉をフッと持ってきてフッと置くような話し方をされる方で。「冷たい太陽」とか、「ギンギラギンにさりげなく」とか、そういう真逆の言葉をピッとくっ付けて言うとイメージが喚起されて面白い、オクシモロンとか撞着語法という修辞技法があるんですけど、それを多用される方で、ポツ……ポツ……みたいな話し方で、それはすごく通訳が大変でした。「冷たい太陽」の何とも言えないザラっと感、言葉で持ってこれる距離が遠いゆえのザラッと感があるような気がしていて、それは手話で「冷たい太陽」とだけ言っても伝わらない気がします。もちろん逆に手話の方が良くて日本語にするのが難しいことも、どちらもありますが。

はらだ: 舞台を観た感想を海外の方に通訳してもらう時に、「それはすごく通訳しにくいです」と言われるのと同じことだなぁと思いました。

和田: 私は言語と脳科学を大学院でやっているんですけど、ノーム・チョムスキーが言うマージ(merge)というのがあって、例えば「空が泣いてるよ」と言うことで「雨が降っている」ことを言える、そういうことは第一言語話者の人しかできないみたいです。第一言語としての手話を身に着けるって、環境的にすごくハードルが高いことなので、そういったこと自体がどれくらい発達しうるのか、発達してきたのか、これからどうなっていくのか、個人的には気になっているところです。

イメージを伝えること、通訳することの途方もなさ

和田: 手話ニュースを作られている方々って、例があまり良くないですが、例えば「ロシアで自爆テロが起きました」という話があった場合に、(手でロシアの形を作って)ロシアのどこなのかをイメージで表す必要があって、バスの中でどういう爆発があったのか、(手でバスを走らせながら)バスに乗っている最中に(服を広げると体に爆弾が巻きついていることを示す動き)犯人がこういった形で爆弾を持っていて、ということを手話に変換していかなきゃいけないので、できるだけ映像を探して、見て、正しいイメージを作り込むという話をされていました。そこが結構メインとなる違いなのかなと思いました。

安藤: 和田さんは、トランスレーターではなくインタープリターと名乗っていらっしゃると思うんですが、今の通訳の話みたいなトランスレート的な話の中だと等価性が議論になると思います。例えば「犬」を「dog」と訳した時に、それらは本当に一緒なの?ということ。そのくらいのレベルだったらすごく近い可能性があるんですけど、小説の翻訳で「おどろおどろしい小説を訳す時はおどろおどろしく訳した方がいいんじゃないか」というような話で。どういう言葉が等価、同じなのか。そこが、感覚的な話や撞着語法になってくると難しいのかなという印象を持ちました。たとえ同じような意味だったとしても、イコールで結んでいいのか、ということですよね。

和田: すごく大きな問題ですよね。個人的に2つの訓練を日々していて、それは「自分をいかにゼロにできるか」と、「どれくらいたくさんの経験をするか」ということで、それは「歯が抜ける」とか小さいことも、何でもなんですけど。自分に降り注ぐたくさんの悪いことも良いことも、経験として「そこの領域が拡大できた」という意味では通訳としてアリだなと思っています。できるだけ色々な経験を積むことで眼差しを近づけていけるかなと。それでもなお、絶対的に無理、一生死んでも「通訳できた」とはたぶん言えないだろうな、という途方もなさというか、無理なことをすごくやっているなと思います。

秋山: そこに面白さがある、ということでもある?

和田: 面白さはもちろんあるんですけど、面白い一方で、自分の身体が満足するレベルでの面白さというのは、私自身は納得があまりできなくて。だからカードゲームや「Shape IT!」などのゲームは、場を作ることでその人たちが直接やりとりできたり「私がその場に存在しなくても伝えあえる」ということが自分の中で重要なパラメーターとしてあります。私は、通訳という仕事自体を個々の身体としては楽しんでいるんですけど、最終的に、一生あった方が良い仕事とはあんまり思っていなくて。できればアツアツの唐揚げをアツアツに召し上がってもらうことをいかに達成するかということを、バベルの壁の間でもがいている、という感じです。なので一個人として楽しいことはたくさんありますけど、そこでの身体と、いびつさみたいなものを早く(解消すべく)、色んなものを作って直接の対話が様々な形で行われている状況を作り、私もその中で遊びたいです。

編集者メモ
第1回・第2回はどちらかというとアートマネジメント方面の話が多かった印象ですが、第3回は個々のダンス観、身体観に迫る内容だったように思います。今回のトークを振り返ることで、「いかにダンスの場を作るか」といったハード面だけではなく、そのダンスという行為がもつ意味や、自分の身体と踊りとの関係、自分の目の前にいる人に対していかに踊るか、といったことに意識が向くような気がしました。それらについて考えを深めることが、現在それぞれのアーティストが孤立無援になりがちな状況の中で、慌てて溺れないための手がかり・足がかりにもなるのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

振付家、ダンサー。立教大学映像身体学科を2010年に卒業。現在は主に2人組ダンスユニット「アグネス吉井」として活動。街を歩き、外で踊り、短い映像を数多くSNS(@aguyoshi)に投稿している。