日本のコンテンポラリーダンスの変遷

1.はじめに

ダンスを外から見つめる・語る」に参加して、コンテンポラリーダンサーの活動姿勢が変化してきていると感じた。

小山さんがコンテンポラリーダンスの世界に入った2009年頃は、「今と雰囲気が違った」という。2005年には美術手帖の表紙をコンテンポラリーダンサーが飾るなど、正に「コンテブーム真っ只中」。スタジオのレッスンでの「ライバル同士のバチバチ感がすごい世代」だという。師事しているダンサー・振付家から直に仕事をもらうことも少なくなかったそうだ。

2.これまでのコンテンポラリーダンスの流れ

2000年代初頭といえば、2000年には京都芸術センターが開館し、第1回越後妻有アートトリエンナーレが開催。2001年には文化芸術振興基本法が公布され、第1回横浜トリエンナーレ開催、トヨタコレオグラフィーアワードが創設された。2002年にはDANCE  BOXがNPO法人化され、ダンスビエンナーレトーキョー(現DanceNewAir)、朝日・アート・フェスティバル、ダンスがみたい!新人シリーズ(dー倉庫)が開始した。2006年には立教大学現代心理学部映像身体学科が設置され、同年神戸女学院音楽学部音楽学科舞踊専攻も設置されている。
NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(以下JCDN)が2001年に法人認証され、同年からコンテンポラリーダンスの全国的な普及と全国でコンテンポラリーダンスのアーティストが生まれ、ツアーができるようになることを目的に「踊りに行くぜ!!」が10年にわたり実施された。また、2000年ごろからはJCDNやNPO法人芸術家と子どもたちを筆頭にアウトリーチ活動も盛んに行われている。

このように、2000年代初頭は、文化芸術の制度が整い、芸術祭がスタートしたりコンペティションの場が生まれたり、コンテンポラリーダンスの教育の場も設置されるなど、芸術業界全体として勢いのあった時代であることが伺える。そして、そのような状況の中で、コンテンポラリーダンスは特に勢いを持って全国的に波及していったと言えるだろう。

なお、コンテンポラリーダンスカンパニーはこうした2000年代初頭の勢いの、少し前に相次いで結成されている。下記羅列する(敬称略)。

1995年 伊藤キム+輝く未来、水と油(小野寺修二)
1996年 コンドルズ(近藤良平)
1997年 Nibroll(矢内原美邦)
1999年 大橋可也&ダンサーズ
2000年 金魚(鈴木ユキオ)
2002年 BATIK(黒田育世)、Co.山田うん

そして2004年、日本初の公共劇場専属舞踊団としてりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館にNoism(金森譲)が設立される。
更に同年、知的障害者や福祉施設の職員らによるダンスグループ、湖南ダンスカンパニー(北村成美)が、2005年には路上生活者及び元路上生活経験者で構成されるパフォーマンス集団ソケリッサ!が結成される。
2010年頃には砂連尾理がドイツの障がい者劇団ティクバとの「Thikwa+Junkan Project」、京都・舞鶴の高齢者との「とつとつダンス」などの活動を始めている。
また、2013年には、1985年に結成されたKARAS(勅使河原三郎)の拠点としてカラス・アパラタスが設立され、同年、元Noismダンサーである平原慎太郎がOrganWorksを結成している。

これらの動きは、2000年前後のコンテンポラリーダンスが勢いをもって波及したことをステップとして生まれた第二段階的な流れと捉えることができないだろうか。
コンテンポラリーダンスが全国に普及し、様々な活動が蓄積されたからこそ、公共劇場の専属舞踊団として、あるいはダンサーではない人々(身体)との活動として、そして、第二段階的な活動としての、コンテンポラリーダンス活動が生まれている。

3.ダンス“だけじゃない”

小山さんも大学生に進路相談を受けたら「就職しながらダンスを勧める」と話していたが、演劇の人々の間でもこうした考え方はあるようだ。例えば、高橋かおり(2015)は、社会人としてのキャリアを築きつつも、芸術的な質を追求する人々を「社会人演劇実践者」として調査を行なっている。コンテンポラリーダンスではこれまで特にこうした活動形態に注目されることはあまりなかったが、日本のコンテンポラリーダンスのトップを走ってきた人の中にも、こうした活動形態は見られる。例えば大橋可也はシステム開発の企業に勤め続けており、2009年に山崎広太が行ったインタビュー(Body Arts Laboratory Interview)では「仕事は仕事として、それも責任のある仕事をやりたいと思ったんです(中略)僕みたいなアーティストのモデルもあっていいと、今やっている人、これからやろうとする人にも伝えたい」と話している。また、近藤良平さん率いるコンドルズのメンバーもそれぞれダンサー以外の“顔”を持っていることもよく知られている。

こうしたダンス“だけじゃない”活動形態が、今、そして今後のコンテンポラリーダンス活動においてさらに多様化していくのではないかと感じたのである。
小山さんが「ダンスで何をしたいのか、で次に踏むべきステップが変わってくる」と話していたが、つまり、前述した第二段階的なコンテンポラリーダンスの流れを経て、どういう立ち位置でのコンテンポラリーダンスなのか、誰と共に行う活動なのか、どの文脈でのコンテンポラリーダンスなのか、という選択肢がとても多様化していると考えるならば、それらは、「“就職”とダンス」、という組み合わせだけではなく多様化した「“〇〇”とダンス」という組み合わせにより選択されるものなのではないだろうか。

第三段階に入ったであろう現在、新型コロナウイルスの流行という否応なく活動の変換を求められる事態の渦中にありながらも、一人のダンサー・振付家として、自分の“〇〇”は何なのか、改めて問い直し、今後の活動を紡いでいきたい。

参考文献

高橋かおり(2015)「社会人演劇実践者のアイデンティティー質の追求と仕事との両立をめぐってー」『ソシオロゴス』(39)、pp.174-190.

 

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第1回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

ダンスを創ったり踊ったりホールで働いたりしています。映像身体学科卒業、21世紀社会デザイン研究科修了。日々の生活の中での気づきを大切にしています。