[第1回]ダンスを外から見つめる・語る 《参加者の感想》

[第1回]ダンスを外から見つめる・語る にご参加いただいた方から寄せられた感想を掲載します。

横尾圭亮さんからの感想

今後のダンス業界、そして私の属する演劇業界を、より多くの人達が活動しやすい場所にするためにも「アート・マネージメント」の必要性を強く感じた。

と、同時に中央、つまり芸術家たちの教育制度やアカデミズムの改良というものも考えていかなければならないという必要性も感じる。 

また小山さんのおっしゃっていた日本の「演劇業界>ダンス業界>コンテンポラリーダンス業界」という構図を聞いた時は、あまり考えてなかった認識なので、ある意味悪い意味で驚かされた。 

私が活動していた、ロシアやヨーロッパでの所謂演劇業界ではほぼ日常的に「コンテンポラリーダンス的」な要素は演劇表現として見られ、また多くの演劇人たちが「言葉以上に語る身体」というものを探している。

業界全体の未来を明るくするには小山さんのおっしゃる縦構造、もしくはお互いの縄張り意識のようなものが強固に業界内に存在するのであれば、
そういった物は早急に取り外す必要があると思う。

より多くの「身体活動」をしている人達が横のつながりで協力しあって、幅広く「人間」を考察し、ある種の「共通言語」、それはこの文明社会で日々失われ続けているのかもしれない、を探していけるようになれれば良いと思う。 

そうすれば、「内と外」の溝は少しずつ埋まっていくのではないか。

今回の話しの最後の方に掴んだ感覚から、また歴史的に見ても「舞踊・演技・武術」のフィールドジャンルの話し合いは面白いかもしれない。

片山夏波さんからの感想

今日は参加させていただきありがとうございました。自分は今、先輩の助言をもらい、ダンサーとして活動するだけでなくダンスを一つの道具として捉えて他の業界で扱えるように、仕事をもらえるようにしたいと思っていたのでとても今日のトーク勉強になりました。

私は来年から治療家を目指して3年間専門学校に通う予定です。
今バイトをしている療育センターのようなところで治療とダンスの知識を生かして何かできるのではと模索しようと思っています。
発達障害の子どもたちと関わってみたい、何かみんなと共有してそれがみんなにとってもいい刺激になるんじゃないか、と思ってそれが将来仕事としてもらえればいいなぁ…と考えています。

外からの視点の前に私はダンスの内側のことも知らないので勉強しなきゃなと思いながらみなさんの話を聞かせていただきました。正直私は考える力がどんどん低下して聞くだけで精一杯な感じですが、関わっていきたいと思っているのでこれからも参加させていただきたいです。よろしくお願い致します。

葛原敦嘉さんからの感想

「コンテンポラリー・ダンスとは、なんでもありのダンスだ。」

これはコミュニティの中でよく聞く説明で、いまや分類しきれないほど多種多様な表現が展開されていることを鑑みるとなんとなく腑に落ちる感覚もあります。
だけど、本当にそうでしょうか?あるいは、ほんとうにそれだけ、なのでしょうか?
もうすこし「わたしたち」とはどういった存在なのか、「わたしたち」はそれぞれコンテンポラリー・ダンスと呼ばれるものの、どこを愛し、どの部分に同一化し、なぜその場所に居心地の良さを感じているのか?そのことについて考えるときが今なのかもしれません。

いやいや、それは海外から輸入された文化なのだからと、なにかわかりやすい外部に説明を求めたくなるかもしれません。けれど、コンテンポラリー・ダンスは、もう何十年もの間、日本の文化の中に取り込まれ、育まれ、変容し続けています。
コンテンポラリー・ダンスは自立したダンスのカテゴリーを形成しつつも、バレエやモダンダンスといったある歴史・様式・規範に対して派生し、時に反抗しながら発展し続けてきました。そうした時代背景から少し離れた現代のわたしたちは、そうした明確な対立項を持っていなかったとしても、それぞれが個別の理由をもってコンテンポラリー・ダンスという名前に愛着を感じているかもしれません。たとえ、バレエを自身の踊りのルーツに持っていたとしても、コンテンポラリーという言葉を選んで自らのアイデンティティにするとき、それはその個人にとってどんな意味を持つのでしょうか?
「バレエ・ダンサーとはバレエの演目を踊るダンサーだから」
「バレエ・ダンサーとは特定のカンパニーに所属していないといけないから」
「バレエ・ダンサーとは、○○でないといけないから」

その枠組みに否定されたわたしが、コンテンポラリーという名前に出会ったとき、こういう見方ができるかもしれません。
「コンテンポラリー・ダンサーとは、ある技術や様式に縛られる必要はない」
「コンテンポラリー・ダンサーとは、必ずしも市場経済の仕組みにうえで評価される必要はない」
「コンテンポラリー・ダンサーとは、○○でなくともよい」

こうしたそれぞれの個人が感じている束縛を解き放つ側面が、ダンサーの数だけあるからこそ「なんでもあり」という風にみえてしまうし、実際にそれが「なんでもあり」で寛容な文化を生み出してもいるのかもしれません。

もう少し、このことを掘り下げてみると、◯◯ではない、◯◯が嫌だ、という諸個人のアイデンティティとなるかもしれません。
「わたしは、これまでのダンスに根付いた健常身体的な規範に従わない/従えないダンサーである」
「わたしは、上演の価値を通貨的価値に見出さないダンサーである」

そしてまた、数十年にわたって育まれたコンテンポラリー・ダンスの中にある特定のメソッドや、表現方法に愛着を感じ、同一化するダンサーもいるでしょう。あるいは、コンテンポラリー・ダンスを中心に上演する劇場文化や、大学、コミュニティの中にいるからこそ、自身をコンテンポラリー・ダンサーと名乗る人もいるでしょう。
「◯◯というメソッドを習得したから自身は、コンテンポラリー・ダンサーだ」
「自分の周りにコンテンポラリー・ダンサーがあふれているし、自分も似たことをしているからコンテンポラリー・ダンサーだ」

こうして考えてみると、実際のところ「なんでもあり」にみえているコンテンポラリー・ダンスは、いろんな個人が持っている信念や愛着や固有の文化が、様々に重なりあうことで一つの布を織り上げていることがわかります。こうした集積としてのコンテンポラリー・ダンスを知るためには、まずそれぞれ個人が、コンテンポラリー・ダンスと呼ばれるもののどこを愛し、どの部分に同一化し、なぜその場所に居心地の良さを感じているのか?そのことについて考えることなくしては見えてきません。それぞれの点を繋いだ時に、コンテンポラリー・ダンスという線がようやく見えてくるのかもしれません。そしてまた、それは一つの文化である限り絶えず可変的で変容し続けるでしょう。

あなたにとって、コンテンポラリー・ダンスとは何でしょう?

 

 

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