コンテンポラリーダンスには「型」がない?

 コンテンポラリーダンスには「型」がないらしい。本当なら不思議なことだと思う。ダンスでも武道や格闘技でも(特にそれが伝統的な技法であるときには)一定の「型」があることが多い。もちろん一口に「型」と言っても中身は様々だ。「型」ってなんだろう?


 先日のトークで小山さんはコンテンポラリーダンスには「型がない」と言っていた。じゃあ「型がない」ってどういうことなのか。そもそも「型」ってどういうことなのか。「型」は何のためにあるのか。僕にとって身近な武道からダンスへと(ちょっと強引かもしれないけど)領域を横断しつつ、簡単に考察してみたい。

 空手の場合は流派や団体によって「型」と書く場合と「形」と書く場合がある。これはときどき論争の種になる問題で色々な答え方があるのだけど、そのひとつを提示してみよう。「形」と書く人たちは空手の「かた」は「型にはまった」と言うときのような固定的な「型」ではなく、流動的なものだからという意味で「形」と書いている。一方で「型」と書く人たちは空手の「かた」を丁度「鋳型」のように捉えている。「かた」を通して空手の身体を作っていくという意味で鋳型の「型」と書いている。

 他の武道だとなんとなく二人以上で行うもの(剣道の形、柔道の形)は「形」、一人でやるもの(大相撲の土俵入りの型)は「型」と表記されることが多いような気がする。

 ダンスはどうだろう。空手の話から類推すると、バレエのバーレッスンのように一人で行うもので、身体に対してある種の負荷をかけて矯正するのは「型」に近い気がする。一方でブレイクダンスやヴォーギングのように流動的で表演的な技術は「形」に近いような気もする。ただ、この「型」と「形」の話はややこしくなるから、ここまでにしておこう(させてください)。とにかくここからの話で大事なのは、コンテンポラリーダンスには「型がない」ということなのだから。

 面白いのは、コンテンポラリーダンスには「型がない」という一方で(井戸端メンバーの有泉さんの話によれば)「流派」のようなものはありそうだ、というところだ。「流派がありそうだ」というのは「個別のカンパニーやグループ単位でみれば、そこには一定の技術体系(のようなもの)がありそうだ」ということだろう。それはある種の「型」と呼べるのではないか。

 ここでちょっとだけ広義の「型」の話をしよう。日本思想史の研究家・源了圓は『型』(1989 創文社)という本の中で「型」という言葉が広範な領域において様々な使われ方をしていることをあげ、個人の行為の次元から社会における集団の行為様式、そして文化の型と呼ばれる一般的なものまでを含む、「型」の広範な領域を示したのち、以下のように述べている。

(「型」は)人間の意識的・無意識的な動作によってつくられる形のうち、ある形がとくに選択され、そしてその形を繰り返し繰り返して洗練し、その形の現実化を持続的なものとしようとする努力・精進の結果、成就し完成したいわば「形の形」ともいうべきものにほかならない

源了圓(1989)『型』創文社 pp.13-14


 なるほど、「型」は「形の形」、つまり個別のテクニックを統合するシステムと言えるかもしれない。さっきの話だと、コンテンポラリーダンス全体に共通するテクニックやシステムがあるわけではないが、個別のカンパニーやグループのなかではそれぞれが持つダンスのテクニックとシステムが共有されている、ということはありそうだ。もしそうなら、コンテンポラリーダンス全体としては「型がない」としても、個別のカンパニーやグループにはある種の「型」と呼べるものがある、といえるかもしれない。

 こうしてみると「コンテンポラリーダンス」という総体があるのではなく、むしろダンス界で何かの体系から外れた様々な分派(セクト)が自称するのに便利な言葉として(共有というよりはむしろバラバラに分け持っているという意味で)「分有」している言葉が「コンテンポラリーダンス」なんじゃないかと思えてくる。そのなかに「型」があるとすれば、それは個々のセクト内を統合するためのシステムとして機能しているはずだ。


 「型」について考えてみると界隈の話がちょっと理解しやすくなった気がする。この考察に当たっている部分があるとすれば、今後コンテンポラリーダンス界隈で「型」の意義にスポットライトが当たる日が来るかもしれない。

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第1回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

信州大学大学院人文科学研究科に在籍(2020年9月時点)。専門は身体論(研究テーマは空手)。在学中にサークル「現代限界芸術研究会」を創設。絶賛求職中の24歳。