何がいいんだか全然わかりません~生活とアートの境界~

「人はどうやってアートに出会えるか。」

 これは先日のトークで青木彬さんが自らの課題として提示していた言葉だ。トークの中でも町中でアートやダンスをどのように開いていくかということが話題の中心だった。その中でも出た話ではあるが、アートやダンスをただ町中で展開すれば人がアートと出会うというわけではない。そこで、アートとの出会いに関して先日のトークとは別の論点を二つほど提示してみようと思う。まずアートの良さがわからないということについて、そしてアートとは既に出会っているのではないかということについて雑感を書いてみようと思う。

 インターネットポップロックバンド「神聖かまってちゃん」の曲《ロックンロールは鳴りやまないっ》の歌い出しは次のようにはじまる。

昨日の夜、駅前TSUTAYAさんで

僕はビートルズを借りた

セックスピストルズを借りた

「ロックンロール」というやつだ

しかし、何がいいんだか全然分かりません

神聖かまってちゃん《ロックンロールは鳴りやまないっ》

 ビートルズもセックスピストルズも高い評価を得ているロックバンドだが、歌詞中の主人公にとっては「何がいいんだか全然分か」らない。この「何がいいんだか全然分かりません」という言葉はごく最近、現代アートや舞台芸術に対してネット上で投げつけられた言葉でもある。あいちトリエンナーレやコロナ禍における演劇人の発言の相次ぐ炎上などは記憶に新しい。

 難しいのはこの主人公はビートルズもセックスピストルズも聴いたうえで「何がいいんだか全然分かりません」と言っていることだ。同じように、あいちトリエンナーレに行っても現代アートの「何がいいんだか全然分からなかった人」や、演劇を観に行っても「何がいいんだか全然分からなかった人」だっているはずだ。

 もちろんアートの世界ではそうした「全然分からない」鑑賞者と作品をつなぐ仕事がキュレーターなのだが、ダンスにはそれに相当する人がいないのではないかという話もあった。

 一方で、「アートに出会おう」といった場とは異なるかたちでアートと出会っている人もいる。僕自身もそうだろうし、歌の主人公も勝手に出会っていく。

夕暮れ時、部活の帰り道で

またもビートルズを聞いた

セックスピストルズを聞いた

何かが以前と違うんだ

MD取っても、イヤホン取っても

なんでだ全然鳴りやまねぇっ

神聖かまってちゃん《ロックンロールは鳴りやまないっ》

 こうした好運に導かれた刺激的な出会いをするアート場合もある。「何がいいんだか全然分からない」ものに心が震えるような体験は、キュレーターが柔らかく導く体験よりもずっと暴力的だ。そのような作品体験というのも、ときにキュレーターとはまた違ったアートの導き手になる場合がある。この歌における「なんでだ全然鳴りやまねぇっ」もまたそういったキュレーター不在の出会い体験と言えるだろう。

 ここまでは「アートと出会う瞬間」に焦点を当ててきたが、アートの概念を少し広げてみれば、誰もが気づかぬうちにアートと出会っているとも言えることに気がつく。結婚式や盆踊り、宴会芸といったパフォーマンスはあちこちで行われているし、部屋で一人のときに鼻歌を歌ったり、授業中にノートの隅に落書きをしたりということは誰しも一度くらいはあるのではないだろうか。

 このように専門的な領域を超えて広く芸術を捉えなおしていく理論のひとつに鶴見俊輔の『限界芸術論』がある。鶴見はいわゆるクラシカルなアートに代表される、専門的芸術家によって作られ専門的享受者を持つ芸術のことを「純粋芸術」、専門的芸術家によって作られるが非専門的享受者に向けられている新聞やラジオ、テレビなどを「大衆芸術」、そして非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者を持つ鼻歌や盆踊りのような芸術を「限界芸術」として分類している。

 アートの領域を『限界芸術論』のレベルまで広げてみれば我々は既にアートやダンスとは出会っているといえる。そうなると問題はもう一歩先にある「では自分たちの作品をいいと思ってもらうにはどうすればいいのか」という段階に入って行く。つまり専門性なしに(純粋に楽しいかどうかで)作品を鑑賞している非専門的享受者と芸術史の文脈に沿った現代の専門家たちの活動とをどのように結びつければいいかという問題が浮上してくる。

 鶴見俊輔は専門的‐非専門的の境界に関しては特に言及していない。ただ、現代の(特に実験的な)作品を鑑賞するときにある種の専門性が要求されるというのは、現代アートやコンテンポラリーダンスの関係者にとっては違和感があるかもしれないが、一般的なイメージだと思う。アートの文脈を共有しているか否かというのはアートの世界を内外にわける境界線でとなっており、この境界による断絶に対して青木さんのように「アートをあきらめてみる」というのはひとつの選択肢かもしれない。ただ、そうすると現代アートやコンテンポラリーダンスは結局「何がいいんだか全然分かりません」のままになってしまうのではないかとも思う。

 この境界線を飛び越える瞬間、それはアートに感動したり、ときには救われたりするような瞬間なのではないだろうか。青木さんはトークの中で次のように語っていた。

みなさんも、ダンスに救われるとか、心を動かされる瞬間があってダンスをしていると思うんですけど、そういう経験って言語化しづらい。個別的な経験って、美術史には引っかからないわけですよね。

《イベントレポート》ダンスを外から見つめる・語る[第2回]青木さんの発言より

 「純粋芸術的なアートとの出会い」を考えたとき、いわゆる専門的なアートの世界の住人と「何がいいんだか全然分からない」非専門的な人たちの間にある不可視の境界線は無視できない。この境界線を融解させようとするとき、これまでの僕は二つの世界がゆるやかにつながる場をデザインするイメージで語ってしまいがちだったのだけど、実際のアートとの出会いは「なんだかわからないもの」との、もっと瞬間最大風速的な衝動なのかもしれない。アートと日常生活との出会いの瞬間にある、心が揺さぶられるような体験を忘れないようにしたい。

・参考文献

鶴見俊輔(1999)『限界芸術論』ちくま学芸文庫

・参考サイト

神聖かまってちゃん《ロックンロールは鳴りやまないっ》https://music.youtube.com/watch?v=Wihgx_6j09c&list=RDAMVMWihgx_6j09c 閲覧日20/10/30

《ロックンロールは鳴りやまないっ》歌詞 https://j-lyric.net/artist/a053810/l01f883.html 閲覧日20/10/30

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第2回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

信州大学大学院人文科学研究科に在籍(2020年9月時点)。専門は身体論(研究テーマは空手)。在学中にサークル「現代限界芸術研究会」を創設。絶賛求職中の24歳。