日常の中でうっかり出会ってしまうこと

日常の中でうっかり出会ってしまうものって好きだ。勝手に運命を感じたりする。

例えば、日曜の朝のマルシェ。
休日の朝の日差しを浴びた、パンや野菜や店員さんの笑顔に遭遇すると、その幸せな匂いや光景にどうしたって心動かされて「なにかひとつ」と買ってしまう。
例えば、普段通らない道で見つけた花屋に咲いている向日葵。
素敵な一輪に出会うと、今日私は花屋にこれを買うために普段の道で帰らなかったのかもしれないと思ってお持ち帰りしてしまう。

そんな風にアートやダンスに出会えたらいいのになぁとずっと思っていた。

だけれども、現実は、劇場ホールのエントランスや駅の広場で踊っていても、無視される、見てくれない。出会ってくれない。そもそもパフォーミングアーツの本営である劇場は、構造的に閉じていて、前もってチケットを買って指定されたその時間にその場に集まって。ふらりと訪れることなんてない。なかなかどうして、「劇場をひらく」「アートをひらく」ことは難しいんだろうか。そう思っていた。

人はどうやって「アート」に出会えるか

「アート」をあきらめてみる

これは、 今回の第2回セルフカルチベートプログラム「ダンスからもっととびだしていくために」で、ゲストの青木彬さんが挙げていた格言みたいなキーワードだ。きっと、長年考えぬいてからこの言葉を選んでいるのだろうという言い方で、青木さんは仰っていた。

人はどうやってアートに出会えるか、王道ではない周縁のパターンを考えてもいいのだと思う。
そして、アートはこうでなきゃいけない、という立派な文脈を背負うことを諦めてみてもいいのだと思う。

前述したように、劇場ホールのエントランスや駅の広場で公募のダンスグループが踊ることなどは前々から数多くやられてきていたし、そもそも歴史的には劇場文化ができる前はみんな野良で踊っていたはずだ。ただ、劇場という非日常的空間で上演されてきたステージを、そのまま屋外に移しただけのパフォーマンスは、ひらき方としてまだ短絡的だ。もっとステージという概念自体を疑ってみてもいいかもしれない。

地域おこし協力隊で兵庫県の神河町に移住した伊東歌織さんは、こんなことを言っていた。

地域の中で(コンテンポラリーダンスを)普通に踊っているとギョッとされる というのはあって。私も最初の頃、東京でやっていたようなことをそのままやって微妙な雰囲気になったりしてました。

元気なおばちゃんたちに「先生ダンスできるんでしょ!YMCA教えてよ」とか言われるんです(笑)。最初の頃は抵抗があって躊躇していたんですけど、それでも「やりたい」と自発的に言ってきた人たちはその人たちだけだったので、その要求を飲んで、おばちゃんたちの踊りの発表の機会を作ったりしました。するとだんだんその人たちの自発性が出てきて、「いまなら行けるかな」という時に、盆踊りの創作を一緒にやる機会を作ることができて、そのあたりから徐々に変わってきました。

おそらく日常とコントラストが強すぎることがそこにあっても、「自分と関係ないこと」「アーティストなんて自分と違う人」という壁で、サッと見て見ぬふりができてしまう。アーティストと「私」の間には、とんでもなく分厚い壁がある。それが普通なのだ。

それを突破してくれるのがYMCA(西城秀樹「YOUNG MAN」)であったり、玄関先に訪問してくれる知り合いという関係性であったり、お祭りという異様なものでも受け入れられる雰囲気であったりするのだろう。とあるアーティストは、地域の人たちに頼まれる似顔絵を描き続けて1,000枚以上の街の人の顔をデッサンしたらしい。それは所謂アーティストらしい活動ではないのかもしれないが、鉤括弧付きの「アート」をあきらめてみて初めて、本当の意味でひらかれた、うっかり出会ってしまうアートが身近にある状態になるのかもしれない。
もう一つ例を挙げるならば、このセルフカルチベートプログラムの大元であり、実験的で先進的な取り組みをしている神戸ダンスボックスでも、コロナで長い間閉めた時に地域の方から出てきた声は「バレエを踊りたい」という、バレエ教室の開催を望む声だったらしい。バレエや、YMCA、似顔絵といった、みんなが知っていてやってみたいことの先にようやく、社会性をもった営みとしてのソーシャリーでエンゲージドなことが起きていると言えるのだと思う。

まったく、本当に地道で表に出てこない営みである。こんなところに一つの答えがあったのか。

いやいや、普段見ている東京の劇場での出来事の方が特殊なのではないか。経済的指標や、入館者数、チケット販売枚数、広報の広告換算値、数、値、数、数……!

見る人も少ないからなかなか広まらないけれども、確かにこういった活動をしている方々を見て、「コンテンポラリーダンスだからこうでないといけない」ということに無意識に縛られているのであれば、そこから飛び出してみたいし、それは「コンテンポラリーダンスをあきらめてみる」ということかもしれない。
日常の中でうっかり出会ってしまう、街や暮らしや生き方を、すべてを乗せる舞台に見立てて、さてどうやって面白い活動を紡いでいこうか。

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第2回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

秋山きらら(本名)、1991年東京生まれ。2016年より身体企画ユニットを立ち上げ、作品を発表。2018年より始動したダンス井戸端会議で、好きなことを未完成の意見のまま語れる場にできることがヤミつきになり、言い出しっぺになることが多い。
身体表現が興味第一分野だけど、現代アート、コミュニティ、企画、書くことなどに興味あり。検索しても出てこない、その人の実感に基づく話を聞くのが大好き。動き、動かせの発明家になりたい。