ソーシャリー・エンゲイジド/切実な目的

今回の「ダンスを外から⾒つめる・語る 」ではたくさんのトピックが出たが、中でもソーシャリー・エンゲイジド・アートに着目したいと思う。
青木彬さんの話の中で特に印象に残っているのが、

その活動がアートかどうかより、切実さを持っている

という話なのだが、この「切実さ」に“ソーシャリー・エンゲイジド・アートっぽさ”を感じたのだ。

といっても、ソーシャリー・エンゲイジド・アートをよく理解しているわけではないので、まず、ソーシャリー・エンゲイジド・アートの定義を引用しようと思う。
と思ったが、どうやらまだ明確な定義はされていないようだ。

ソーシャリー・エンゲイジド・アートには、いまだ普遍的な定義はありませんが、SEAリサーチラボでは次のように理解しています。
ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)とは、アートワールドの閉じた領域から脱して、現実の世界に積極的に関わり、参加・対話のプロセスを通じて、人々の日常から既存の社会制度にいたるまで、何らかの「変革」をもたらすことを目的としたアーティストの活動を総称するものである

SEAリサーチラボ 

何らかの「変革」をもたらすこと……なんだかとても大ごとに聞こえる。

私は、モノを作るアーティストから、コトを起こすアーティストに身を転じた。

ジェレミー・デラー

これは大分、分かる感じがする。プロジェクト型、ワークショップ型というところだろうか。

過去20年来、美学を用いて社会変動に影響を与えようとするさまざまな表現活動が生まれた。この種のアートワークの多くは、アーティスト一人の手でつくられるのではなく、集団で制作されたり、コミュニティの営みの中から生まれている。参加、対話、行為に重点を置き、それが出現する範囲は、演劇からアクティビズム、都市計画、ビジュアルアート、ヘルスケアまで幅広い。そして、この種のアートワークは、人々の生活の中に織り込まれ、アートとライフの境界をぼやけさせる。

「リビング・アズ・フォーム」プロジェクト概要CREATIVE TIMEウェブサイト

ようやく、青木さんの話に近づいてきた。

(喫茶野ざらしは)喫茶店を装ってギャラリーをオープンしたら、喫茶店を求める人とも出会えた

この話を聞いて、まさに「生活の中のアート」だと感じた。生活の中のアート、身近なアート体験は、文化振興を考える上でもとても重要であろう。

「ソーシャル・プラクティス」として知られるアートの実践者たちは、物づくり、パフォーマンス、政治的アクティビズム、コミュニティ構築、環境保護主義、調査報道の間の境界を自由にぼやかし、奥深い参加型アートをつくりだしている。そしてそれは、多くの場合、ギャラリーや美術館の制度の外で隆盛を極めている

ランディ・ケネディ「ニューヨークタイムズ」2013.3.20“Outside the Citadel, Social Practice Art Is Intended to Nurture”

これに関しても、喫茶店という「制度の外」での取り組みであると言える。また、木村さんの話にもあった「いわゆる劇場空間でなくても、自分で作れるところはたくさんある」ということにも繋がる。

ここまでで、ソーシャリー・エンゲイジド・アートとは、美術館や劇場といった制度に限らず、人々の生活の中に織り込まれたアートとライフの境界線がぼやけた取り組み、を指すことがわかってきた。
もう一つ、大切な要素としては「社会変動に影響を与えようとする」「日常から既存の社会制度にいたるまで、なんらかの『変革』をもたらすことを目的とした」という部分だ。青木さんの話でいうところの「切実さ」だろうか。

ソーシャリー・エンゲイジドな事例

「切実な目的」とは何か、もう少し具体的にみていきたい。
特定非営利活動法人ダンスボックス(以下ダンスボックス)が、ソーシャリー・エンゲイジドな取り組みをこれまでにも多数行ってきている、という情報をいただいたので、ダンスボックスのウェブサイトから、ソーシャリー・エンゲイジドと言えそうな実例を独断でいくつか挙げてみる。

泉北アートプロジェクトヒツジにつながる郊外電車
アートとコミュニティの出会い

2005年3月8日[火]-3月13日[日]
場所: 和泉市久保惣記念美術館、内田町ヒツジのいる公園、泉北高速鉄道、 泉北地域各スペース、堺市及び和泉市の公園、堺市立福泉中央小学校他

泉北高速鉄道が走る文化的な地域「泉北」。
その中の内田町で 2 匹の羊が住民にかわいがられているのを知っていますか。
街と鉄道とヒツジをヒントに 17 人の芸術家がアートとコミュニティのあり方、21 世紀の「ふるさと」という夢を提案します。

堺市立福泉中央小学校でのアートワークショップで創作したこどもたちの詩が、泉北高速鉄道車輌車内に展示されたそうだ。

中之島ブリッジシアター
2007年10月13日、14日
場所:三休橋筋、中之島公園、地下工事現場会場、中之島地下会場入口前

地下駅工事現場と地上公園と近代建築をつなぐアートプロジェクト。
人と人、人と場をアートを通してコミュニケートする試みは地域とリンクしながら時を超えて未来の駅を透視する。

3つのパフォーマンスと1つの展示で構成されている。

循環プロジェクト
2008年4月28日、29日
場所:Studio dB

障害のある人、ない人の境界線を舞台表現へのプロセスと実際に観客の前で公演をすることで、どのように超えることが出来るかという試みです。私たちは<差異>ということを、自然に受け止め、優劣という物差しではなく独自性として発見出来るように、孤立している人々や状況に端をかけ、幾重にも循環していくような関係性を作り出したいと思います。

井戸端会議顧問、砂連尾理さんがナビゲーターとして関わられていますね!

3人のアーティスト(ダンス、音楽、美術)をナビゲーターとして、参加者が相互に交わりつつ、既存の概念を超えた新しい舞台芸術を生み出すことを目指した、とのこと。
また、明治安田生命社会貢献プログラム「エイブルアート・オンステージ」の参加事業として実施された。

大阪BABA
2008年10月1日〜25日
場所:細野ビルヂング、山本能楽堂、フジハラビル、なにわ橋駅

グローバリズムのもと、価値観が均一化されようとする中、一人一人の身体の混沌にアプローチすることで、現代の身体性を浮かび上がらせるプロジェクトです。
大阪が人工的にも産業的にも日本で一番の年であった昭和初期に建設された近代建築や能楽堂、さらに今秋開通する京阪中之島新線の「なにわ橋」に開設されるアートスペースを舞台として、それぞれの<場>の持つ特性と現代に生きる様々な身体を対置させることで、未来に向けた大阪の舞台芸術を探る試みでもある。

3公演とソロセッションで構成されている。

切実な目的

特徴として、概ね街中や劇場ではない空間で行われるものが多い。循環プロジェクトはスタジオで開催されたようだが、障害のある人、ない人が共に公演をすることが目的となっている。
また、タイトルに「プロジェクト」とついているのも一つ目印になりそうだ。
それぞれの目的(試み、仮説)を下記に書き出してみる。

・アートとコミュニティのあり方を提案する
・21 世紀の「ふるさと」という夢を提案する
・人と人、人と場をアートを通してコミュニケートする
・地域とリンクしながら時を超えて未来の駅を透視する
・障害のある人、ない人の境界線をどのように超えることができるか
・<差異>ということを、自然に受け止め、優劣という物差しではなく独自性として発見出来る、幾重にも循環していくような関係性を作り出す
・グローバリズムのもと、価値観が均一化されようとする中、現代の身体性を浮かび上がらせる
・未来に向けた大阪の舞台芸術を探る

こうしてみると、ソーシャリー・エンゲイジドと言えそうだと思った取り組みは、社会問題、社会課題にアートの視点からアプローチする取り組み、というような印象を受ける。
最初に記述した青木さんの言葉は、「そうした活動はコロナ禍でもストップしなかった」という文脈で語られたものだ。確かに、こうした「切実さ」を持った取り組みは、(コンテンポラリー)ダンスにおいても、新型コロナウイルスによって上演という形態が困難になったとしても、他の手法や代替案を模索しながら目的がブレることなく活動が続いていったであろうと想像する。

終盤に、ぽっと提示された話題で「芸術って宗教っぽさがないか」というものがあった。
私はこれから勝手に、“芸術のための芸術”などを連想したのだが、今回ダンスボックスのウェブサイトから(私の独断で)取り上げなかった多くの公演・企画がこれに当たるのではないかと思う。
例えば、ダンスフェスティバル、ダンス公演、芸術祭プログラム、招聘公演(プログラム)などだ。
最近参加した別のオンライントークで、「(制作者側の視点から)現代芸術それ自体のジャンルの発展を目的とした作品の評価と継続が難しい」という話があった。
ソーシャリー・エンゲイジドな活動がコロナ禍でストップしない強さがある一方で、こうした作品や活動はコロナ禍でストップしてしまっているのだろうか。
さまざまなアート作品・活動について、このセルフカルチベートプログラムを通しても、引き続き考えていきたい。

 

この記事は、ダンスを外から見つめる・語る [第2回] に関連して書かれた個別レポートです。
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この記事を書いた人

ダンスを創ったり踊ったりホールで働いたりしています。映像身体学科卒業、21世紀社会デザイン研究科修了。日々の生活の中での気づきを大切にしています。