《イベントレポート》[第2回] ダンス問い掛け連続トークセッション

東京都教育委員会・東京スポーツ文化館の令和3年度チャレンジ・アシスト・プログラム(活動助成事業)に、この度、私たち〈ダンス井戸端会議〉のプロジェクト「ダンス問い掛け連続トークセッション」が採択されました。
2021年12月6日(月)、その第2回目として「“上手くなる” 思考法」をテーマにオンライントークセッションを行いました。ゲストはアーティスト専門トレーナーのKouさん。前半のトークには井戸端会議メンバーの秋山、安藤、白井が参加しました。
3時間に渡るトークの内容を編集したレポートを掲載します。目次があるので、気になる部分だけでもぜひお読みください。
(イベント予告ページはこちら

テキスト:白井愛咲

目次

Kouさんより自己紹介+プレゼンテーション

Kou: こんばんは。アーティスト専門トレーナーのKouと申します。
僕は以下の3つのミッションを掲げて、トレーナーとして活動しています。

ミッション

  1. ヒトの動きの探求
  2. アーティストのハイパフォーマンスの探求
  3. 舞台にコンディショニングトレーナーがいる世界をつくる

今日は、みなさんにお願いしたいことが1つだけあります。それは「ワクワクしてください」。真面目に聞く必要は全く無いです、ただ目の前の話をワクワクしながら聞いてください。そしてここは批判も否定も一切ない安全な場です。なので安心して、みなさんと一緒にお話しできればと思います。

では、まず僕がなぜアーティスト専門トレーナーになったかをお話しさせてください。

ダンサーとして活動していた現役時代に、再起不能の怪我をしました。首と股関節に一生完治しない怪我を抱えてしまい、布団から起き上がるたびに激痛を感じて、全く動けない状態にまでなってしまったんです。それでも「ダンスを続けたい」と思って当時のドクターに相談したら、「踊りの量を抑えるか、あるいはこのまま続けるなら、将来的に人工関節になることも考慮しなければいけない」と言われました。骨を切って関節を作るという人工関節の説明を受けた時に、僕は絶望しました。舞台やダンスに人生を賭けてきた、今までの頑張りは何だったんだろう、と。
でも人生って悪いことが起こると、良いことも起こるものなんですね。その時に運命的な出会いをしまして、科学的に身体を作る学問である医学に通ずる方と出会ったことで、「今までなんて無茶なトレーニングをしていたんだろう」と気がつきました。それまで信じてやり続けていたことが、自分の身体を壊すようなことだった。

それって肉体のことだけじゃなく、心についても言えることなんです。「こんなトレーニングをしていれば、そりゃ心を壊すよな」というようなことはたくさんありますし、実際に心の病気になってしまうアーティストはたくさんいます。
当時、医学に基づいて論理的に身体を診るような舞台のトレーナーはいませんでした。もし当時そういう人がいたら、僕自身、現役を続けられたかもしれない。友人を救えたかもしれない。怪我や病気を予防できたかもしれない。それを知った時に、毎日電車の中で泣いてしまうほど悔しかったんです。
そこで、「誰もやらないなら、僕がやろう」と決意しました。そこからトレーナーとしての勉強と活動を始めて10年ちょっとくらいですかね、活動の甲斐もあって、最近では僕以外にも舞台トレーナーを目指す方や、実際に活動する方々も増えてきています。

そのトレーニング、何のためにやるの?その根拠は?

みなさんに考えて欲しいことがあります。みなさんが行なっている様々なトレーニングを何のために行なっているのか、それをやる根拠を今一度考えて欲しいんです。どうですか。もし具体的に説明できないようでしたら、もしかしたら自分の身体に合っていないトレーニングを行なっているかもしれません。
自分の身体に合っていないことをしているとどうなるか。もちろんパフォーマンスが下がります。今みなさんが行なっているトレーニングやメソッド、舞台上での立ち方には、自分で考えて身につけたものもあると思いますが、先生や学校に教えられたもの、人から影響されたものもあると思うんです。誰かに教えられたことをやり続けていたとしたら、気をつけて欲しいことがあります。それは、例えば先生の筋肉や骨格、あるいは先生のカンパニーメンバーの身体でうまくいった方法を教えられている可能性がある。それらが必ずしもみなさんの身体の構造に合っているとは限らないですよ、ということなんです。

理論との付き合い方

では一から十まで理論的にやっていけばいいのかというと、これがまたそうでもないんです。なぜなら舞台芸術って、理論ではわからないことがいっぱいあるから。
例えば、いま僕は「才能って何なのか」ということを、色んな論文を読んだりして研究しています。才能というのは物理現象として表出しているものなので、何かしらの糸口があるだろうと。でもまだまだ答えは出ません。そういった、理論ではわからない部分もいっぱいあります。
ただ一方で、「才能がある人にはこういう傾向がある」というのはあるんです。だとしたら、理論でわかるところは理論で突き詰めて行ったほうが、舞台パフォーマンスが速く向上するんじゃないでしょうか。理論で土台を作ってから、その上に積み重ねていくのが理論でわからない部分なんです。土台がないのに理論でわからない部分を積み重ねていっても、泥の舟のようにいつか沈んでいってしまう。

舞台って、どうしても成功している人の方法論や哲学が独り歩きしてしまっている状態があると思っています。例えば演技や踊りが見事な役者さん・ダンサーさんがいたとして、その人が「このやり方が良い」と言えば、それが正解になってしまう傾向が非常に強い。
そうなると、自分で考えられない人は危険です。繰り返しますが、その人の方法がみなさんの身体の特徴から逸脱していたら、パフォーマンスは上がらないんです。骨格や状態、ヒトの原則に合わないようなことばかりやっていると、どんどんおかしなことになっていって、僕みたいに怪我をしてしまうこともあります。

ヒトの原則

ここで考えなければいけないのは、「ヒトの原則って何?」ということです。
人体というのは、微生物からナメクジみたいなものになって、魚になって、足が生えてきて木に登りだして、人間になった。まず猿からヒトになるまでで 600万年。カンブリア紀からは5~6億年かけて成り立っていて、さらに遡ると36億年前に1つの細胞が生まれ、そこから新しい適応を生み出し、進化していった。こうして我々ヒトの身体は、とてつもなく長い時間をかけながら、要らない機能を捨てて必要な機能を得て、というのを無限に繰り返して成り立ってきているわけです。
その過程を知っておくと、何をやるべきで何をやらない方がいいのか、わかってきたりします。ダンサーさん自身でもそういったトレーニングの取捨選択をある程度できた方が良い、というのが僕の考えです。なので実際に僕はこういった学びをダンサーさん・アーティストさんにシェアしています。
この考えをベースにして、解剖学や生理学、神経学や発達学、あるいは哲学など、あらゆる学問から人の身体を研究する。それにより舞台パフォーマンスが向上するという前提のもとで、包括的なトレーニング指導を行なっています。

ヒトとしての動きを良くしていく

秋山: 例えばバレエには、ロイヤルのRADメソッド、ロシアのワガノワ・メソッドなどがありますが、Kouさんは何か一つのメソッドに特化するのではなく、ご自身で実験したことを試しながら、その人に合ったやり方を提案しているのでしょうか。

Kou: ヒトの身体って、単純なものではないんです。なので踊りや演技以前に、人間としての動きを本当に良くしていくためには、1個の身体運用でうまくいくはずがないと個人的には考えています。1個の身体運用というのは結局、誰かが生み出したワザですよね。バレエでさえ誰かが作ったワザだとすると、何億年という歴史の中のたった数百年で、ヒトの身体を本当に良くできるのか? 僕はそれを疑っているんです。
なので、あらゆる学問や身体運用方法を勉強しています。例えば解剖学、進化学、生物学、神経学、発達学、哲学、あるいはバレエとかヒップホップ。ありとあらゆるものを包括して、アーティストさんや一般の方に提案しています。

秋山: お話を伺っていると、「ダンサーは舞台に立ってパフォーマンスしている時だけ良ければ良い」という考えとは正反対のことをおっしゃっていると思いました。「人間としての動きを良くしていく」というのは、どういったところを目指しているんですか。

Kou: 例えば我々って、昔は猿だったじゃないですか。猿だった時代の身体運用を見ていると「人間もこういう風に動かないといけないよね」という部分があったりします。ご先祖さまから受け継いできた「こういう風に動くべきだよ、関節は」というところから逸脱することを踊りでやっていると、舞台表現として良いか悪いかは別にして、その人の身体には確実に良くない負荷がかかっています。
進化って、そんなに簡単にはできないんです。何世代もかけて我々は進化して適応しているので、昔から積み重ねて受け継がれている関節運動から1世代で逸脱してしまうと、壊れてしまいます。なのでベースとしての動きを身につけた上で、自分がやりたい表現を追求していったほうが安全なんじゃないか、と考えています。

秋山: 私のバックグラウンドはクラシックバレエなのですが、バレエは「これが良い」「これは良くない」という判断がしやすいジャンルだと思っています。例えばアン・ドゥオール(股関節から脚全体を外側に開くこと)、足が高く上がる、回転ができたほうがいいなど、「上手い」というのがわかりやすい。そこからコンテンポラリーダンスに出会った時に、「これは何をもって『上手い』というんだろう」と考えました。舞台で見た時に「この人は上手いな」という人はいるし、「すごい作品だ」というのは見てわかるんだけど、それを言語化したり点数化することはできない。
ずばり聞きたいのですが、何をもって、どういうことを「上手い」と捉えていらっしゃいますか。

Kou: 「上手い」に定義は無いので、まずはその定義を再設定するところから始まります。前提として僕はトレーナーなので、その人のパフォーマンスを高めなければいけません。例えば「速く動きたい」「もっとゆっくり動けるようになりたい」「ここが硬い」「心の状態が悪い」、そういったものを解消していく仕事です。そう考えると、僕が「上手い」を定義するならば、「ヒト=ホモ・サピエンス=ヒト属ヒト科の身体にとって無理のあることをしていない」、ヒトの身体としての身体運用が上手い、ということになります。
立てているか、歩けているか。そういったシンプルなところから見たりします。有名なダンサーさんを見ても、歩けていない・立てていない場合があります。その人の踊りに特化した歩き方・立ち方にはなっているけれど、「このやり方を色んな人に伝えてしまうと、壊れる人が多いよなぁ」と思います。

白井: その「立てていない」人をご覧になった時に、どういうポイントを見てそう思われるんですか?

Kou: 「こうあった方がいい」という関節の位置が、我々の世界にはあるんです。例えば、足首、膝、骨盤、背骨の形、肩関節の位置、頭の位置。それらが連なる垂線がどこにあるか。我々の身体って常に重力に晒されていて、これは誰も抗えない事実です。重力はすさまじいエネルギーを我々に与えてくれるんですが、そのエネルギーを有効活用できないと、重力が負荷となり、身体に障害を与えることになる。重力に対して身体がまっすぐになっていないと、どこかしらに負荷がかかってしまいます。

Kou: イメージとしては、ここにある木の棒を上から真下に押すと、力がまっすぐかかるので棒に対する負荷は少ないです。でも棒を斜めに傾けた状態で上下から押すと、棒にすごくストレスがかかります。折れちゃうかもしれない。そういった観点で「立つ」ということを見ています。
これをファーストポジションと言ったりしますが、このポジションが取れていないと、次のセカンドポジションに向かうムーヴメントの時にパフォーマンスが悪くなるんです。余計なエネルギーを使ってしまったり、使いたい筋肉とは別の筋肉を使ってしまったり。なので上手いダンサーさんでも、ファーストポジションを少し変えるだけで「なんだか動きやすくなりました」ということがあったりします。

動きの伝えかた

安藤: ここまでのKouさんのお話は論理的でとてもわかりやすかったんですが、今のようなことを人に説明する時、例えば「正しい立ち方って何ですか?」といった質問に対して、棒を使った説明のように具体的な身体の状態について話す場合と、身体の感覚で教える場合があるじゃないですか。「頭から糸で吊られるように」とか「背骨に棒が刺さっているように」とか…。どんな言い方をしたら伝わるのかについて、何か普段から行なっている工夫はありますか。

Kou: 安藤さん、めちゃくちゃ良い質問ですね。それは僕の永遠の課題なんです。というのも、コーチング等でも習うんですが、抽象的に伝えたほうが上手くいく人もいれば、具体的に言ったほうが上手くいく人もいる。それを見極める能力がこちらにないと難しい場合もあり、僕自身まだまだ鍛錬中です。

安藤: 「上手い動きができる」ことと「上手い動きを伝えられる」ことの間には、スキルに相当乖離があると思うんです。「上手い動き」そのものは研究が可能で、測ったりすることができるはずなんですけど、上手い動きかたを伝えるのって難しい。「上手い動きとは」という問題と、「上手い動きを伝えることができるかどうか」という問題には、それぞれの難しさがあると思っています。

Kou: その通りで、例えば「良い動きはコレだから、コレをやってください」という指導をすると、パフォーマンスが落ちるということが運動科学の世界でわかっています。でも、いうなればダンサーの世界って全部それですよね。運動科学で「パフォーマンスが下がる」とされていることを、ダンサーの世界ではやってしまっている。
ではどうすればいいのか、というのが認知の分野でだんだんわかってきています。それは、その動きで使われるべき筋肉や関節や神経の動きを、先に作ってしまうこと。そうすると勝手にその人は「良い動き」になっていくんです。実際にはなかなか難しいですよね。ただ、だとすると我々トレーナーとしては見るべきことが簡単になってきていて、ある動きを見た時に「この動きだったらこういう身体の原則があるから、ここがこの形になっていちゃダメだ」「そこで失われている機能は何か」「失われている機能を補完しようと、他の(使わなくていいはずの)筋肉や機能が働いてしまっている」、という風に考えます。そして本来使いたい筋肉や関節を動けるようにしていってあげる。すると身体って気持ちいいところに行こうとするので、勝手に良い動きになっていくんです。

秋山: ダンスって、上手い人の動きを見てそれをコピーする、というのが基本的な伝達の仕方ですよね。動きを真似て学んでいくのではなくて、身体の基礎が良い状態になってさえいれば、そこから自ずと動きが生まれてくる、という逆の流れが面白いですね。

Kou: とはいえ、「真似する」っていうのも大事なんですよ。我々には「ミラーニューロン」という人を真似する神経回路があるので、そのミラーニューロンを使うこと。例えばバレエダンサーさんだったら、目の前でとても上手い人がバーレッスンをしていると、なんだか動きやすくないですか。

秋山: 確かに、動きやすいです。

Kou: 真似するのは大事なんですけど、真似ようと思った時に身体の基盤ができていなければ、真似が難しい場合もある。そんな時に先生は、その生徒さんが何ができないのかを見極めることが必要です。そうでないと、あまりにも自分ができない状態が続いてしまった場合に、心の状態が悪くなってきてしまうということがわかっています。

鏡の良し悪し

安藤: Kouさんは、鏡の存在ってどう思われますか。空手の道場にも今は鏡があって、鏡があると自分の格好と先生の格好を合わせて修正しようとしてしまうけど、実はそれが自分の身体にとって正しい状態にはならない可能性がある。
鏡がない状態での伝承を考えた時に、先生の感覚と弟子の感覚が合っているかどうか、先生は自分の格好を見ていないのでイメージで判断しますよね。弟子も先生の格好と自分の身体のイメージで話をする。それが鏡があると視覚的にピッチリ合っちゃうというのが、良い面・悪い面の両方あるような気がします。

Kou: 鏡があった方が良いケースと、ない方が良いケースがあります。良い姿勢を保った上で鏡を見るなら良いかもしれませんが、悪い姿勢で鏡を見ていると、まず視覚がそこに集中してしまう。実は人の身体って、目で見ている物に対して頭が近づくという習性があるんです。どんどん頭が前に行ってしまって、鏡を見るような指導をすることで悪い姿勢が助長されてしまう。なので、後ろに引っ張ってくれる筋肉がちゃんと働いている上で鏡を見るならば良いかもしれません。
しかし、それも一概には言えないんです。姿勢を作る感覚は主に視覚・体性感覚(筋肉や関節がどこにあるか認知する感覚)・触覚で、その中でも視覚が大きな影響を及ぼします。目で見て自分の姿勢を認知する能力が我々にはある。悪い姿勢の人が、鏡による視覚のフィードバックで姿勢が良くなる場合もあります。

頭頂葉と辺縁系

Kou: 頭頂葉という脳の部分があります。頭頂葉には視覚情報を統合して身体に伝えるという空間認知に携わる部分があり、この頭頂葉が「自分の身体をどう動かして行ったら良いのか」という部分と直結しています。何が言いたいかというと、視覚を固定してしまうと、空間認知が広がらなくなり、頭頂葉の活性が失われるんです。
だから僕は「鏡ばかり見ないで、森とか公園とか行った方が良いよ」といつも言います。森や公園、視覚が広いところで身体を動かしていった方が頭頂葉の活性に繋がり、結果として身体を動かす感覚も良くなっていくことがあります。
なので一概には言えないけど、基本的には鏡は無い方が良いと思っている派です。といっても僕のスタジオに鏡ありますけどね。(笑)

秋山: めちゃめちゃ面白い。

Kou: 鏡は本当に深いんですよね…。目が固定されることで、もしかしたら心の病気になっちゃうかもしれない、ということもあったりします。

秋山: どういうことですか?

Kou: 目が固定されると、やっぱり頭頂葉の感覚が悪くなってくるんです。すると身体を動かしづらくなるかもしれない。身体を動かしにくくなった時にどうなるかというと、不安に感じる傾向があるんです。その不安に感じる脳みそが、大脳の辺縁系という部分です。脳が3セクションに分かれているうちの真ん中らへんにある、この辺縁系が我々の心を不安にさせるんです。身体を固くしていったりもします。
で、こいつら(辺縁系)って、不随意なんです。勝手に働いちゃって、反射的にグッと不安になる。ここを制御するのがどこかというと、頭頂葉がある、脳の外側の大脳新皮質という部分です。身体を動かしたり視覚をいっぱい使ったりすることで大脳の新皮質が働くと、不安にさせる辺縁系の活動を抑制してくれるということがわかっています。
なのでしっかりと頭頂葉や大脳新皮質が働くような環境を作ってあげることが、結果として身体がよく動くという方向に繋がっていくし、心の安定を保つためにも良い。それって結局、舞台パフォーマンスが上がる方向に行きますよね。

白井: 腑に落ちるお話ばかりです。私は外で活動しているので「公園とか森とか行った方が良いよ」の過激派というか、それしかやらないので、環境の入力が身体の動きや心に及ぼす影響というのはすごく興味のあるところです。
舞台という環境についてはどうお考えですか? 私はもともと舞台に立っていた人間なんですが、「劇場の環境に長時間いると具合が悪くなる」と感じたことがあります。楽屋と舞台をずっと行き来して、舞台空間の大音量の中で本番を迎えるということが、身体と精神にダメージを与えると思ったんです。

Kou: これは完全に私見ですが、舞台はブラックボックスなので、視覚が固定されてしまいます。そして頭頂葉には、聴覚も作用するんです。例えばイヤホンをずっと付けていると、一定方向の入力しかないので、頭頂葉の活性には繋がらないんですよね。人間の長い進化の歴史の中で、ステレオとかモノラルの時って、ありましたか?「耳元で愛を囁かれる時」ぐらいじゃないですか? つまりずっと耳元で愛を囁かれている状態になっている。本来はサラウンドで、色んな所からの音を聴覚で感じることで頭頂葉が活動する。でも舞台の上では音がどこから鳴っているかわからない状況なので、そりゃ具合が悪くなる人が出てくるよなぁと、お話を聞いていて腑に落ちました。
舞台に行くとなぜか踊れなくなってしまったり、稽古場が変わると踊れなくなった経験はありませんか? 我々の身体って良くも悪くも慣れていくんです。ずっと同じ稽古場を使っていると、視覚も聴覚も慣れてしまう。だから他の場所へ行った時に対応できなくなっていて、身体がバグる。なのでどこへ行っても対応できる状態を作るために、稽古場じゃなくてそこらへんの原っぱで練習すればいいのにな、とよく思います。もちろんアクロバットなど危険なことをする時はそのための環境が必要ですが、借りるなら広いところのほうが良いですね。

秋山: なるほど。私のバレエスタジオでは、本番直前に稽古場の前後を逆にして、鏡を背面にして練習するんです。すると、全然踊れなくなるんですよ。回れなくなる。でもそれもやっぱり人それぞれで、いつも通り踊れてしまう子もいたんですけど、私は踊れなくなるタイプでした。

Kou: 秋山さんは視覚が強いんじゃないかな。鏡で見ることによって、自分のボディイメージをしっかりと認知していたんだと思います。

魅力的≠上手い

安藤: 「上手いって何なのか」という話に戻ると、エネルギーのロスが多かったり、怪我しやすかったり…というのがKouさんの考える「上手くない動き」ですよね。だから上手い動きがあるというよりは、上手くいっていない淀みのようなものを1個ずつ解決していく仕事なんだろうな、と思いました。動いている人の中で明らかにエネルギーのロスがあったり怪我しそうなところを直していって、完成形はお互い探していきましょうね、ということ。

Kou: おっしゃる通りです。その中で理想とする動きがあるとしたら、そこに近づいていくにはどんな機能を得ていきましょうか、というのをやる仕事ですね。

秋山: 「才能とは何か」ということとも関連しますが、「上手い」と「すごい」の違いというか、「魅力がある動き」と「怪我をしない動き」って、必ずしもイコールではないじゃないですか。どちらも両立できるのがベストな状態だとは思いますが、魅力的な動きと怪我をしない動きの齟齬って、そこのギャップが大きいと難しいですよね。

Kou: 人が見て「魅力的だ」と思う動きと、ヒトとして上手くいっている(エネルギーロスのない・怪我しにくい)動き。これらが合致することもあれば、全然合致しないこともありますね。
いわゆる「才能がある」と言われている人にも2つのケースがあります。身体がめちゃくちゃな人と、身体運用が最高で完璧な人。後者の人は僕がお伝えしているようなところですが、そうでない前者がなぜ魅力的に見えるのか、それを僕も調べました。
まずは、自分にとって「異質なもの」を魅力的と捉える脳の機能があります。感動する時に脳のどこが働いているかというと、実はホラー映画を見ている時と同じところの脳が働いているんです。おそらく昔の芸事もそうだったんだと思いますが、やたら踊れたりプレゼンが上手かったり、とにかく「私とは全然違う」という人たちの表現を見ると、扁桃体が活動して感動したり、「すごい」と思ったり、魅力的に見える。
だから、上手くなくても良いんです。上手に踊れなくても「異常」に見えれば、魅力的に見えるんですね。それがコンテンポラリーダンスの世界では結構あったりします。ただ、その異常な踊りでその人が「すごい」と言われて、その人自身も「これでいいんだ」と思って続けていくとどうなるかというと、人体としてはあまり良くない状態なので、身体にも心にも異常を来たしやすい。そうして心に異常を来たしていくと、社会性がなくなってくるんです。「みんな私のことをわかってくれない」みたいな状態になる。それってどうなの?と僕は思います。

白井: 私も一度心を完全に壊したことがあるので、納得しながら聞いていました。でもやっぱりダンスって、美学的に「ありえない身体」とか「自分とは絶対に違う身体」というのが要請されてきたものなので、それを「無くしましょう!」と言うこともできない…という葛藤があります。健康な方が良いに決まっているし、早死にするのは良くないと思うんですけど、「そうも言ってられない」というところがきっとどうしてもあるんだろうなと。自分は「健康でやっていくぞ」と決めてしまったから、ダンスとして評価されるという所から距離を置くようになったんですが、すごく難しい問題だと思います。

Kou: どう付き合っていくか、に尽きるんでしょうね。ダンスとどういう風に向き合っていくか、それは多様で良いと思っています。もし評価される所にいたいのならやはりトレーニングは必要になってくるし、そうでないならば別に必要ないのかなと、僕自身は思います。だって、そこらへんのおばちゃんがこうやって身体を揺らしているだけでも、素晴らしいダンスだと思ったりするじゃないですか。そこに「評価をつける」というのは何なのかというと、やはり、我々が社会に生きているからですよね。人との繋がりが欲しくなってしまう。
ダンスって、そこじゃないと思うんです。別に一人で踊っていても良い。しかしそれが人に見せる物になっていくと、また色々考えなければいけない部分が出てきてしまうんですよね。

秋山: ちょうど第一回目のテーマが「社会とダンスのミーティングポイント」だったので、話が繋がってきましたね。見せるダンスなのかどうか。コミュニケーションを伴うダンスとしてやるのか、一人で踊っていれば良いのか。

Kou: 「上手い」ということを考える時に、他人から見て上手く感じるのか、それともヒトとして上手い動きができるのか、自分はどっちをやりたいのかを考える。「健康を害しても良いから今の表現を追求したい」というならそれで良いと思いますし、「私は人間として健康にダンスをやっていきたい、それを追求したい」というならば、それ相応の勉強が必要になってくるのかなと思います。

アーティストは健康になんかなれない?

Kou: 僕がこういう活動をし始めた時に、色んな所にプレゼンしに行ったんですが、ある有名な方から「アーティストは健康になんかなれない」と言われたことがあるんですよ。それを聞いた時に割と絶望しました。「有名な方がこういうことを言っちゃうのね」と。根っことして「不健康になる」という前提の上でやりなさい、というのがきっとあるんです。

白井: 「不健康になるつもりでやりなさい」みたいな人って、ちょっと世代が上のイメージがありますね。今の若い方ならKouさんのような話も割とわかってくれそう。芸術家観、アーティスト観が変わってきているんだと思います。

秋山: でも、私にも「身体を壊してでも捧げる」という精神があった気がします。

Kou: 僕自身もそうでした。「壊していい」と思っていて、本当に壊れた時に、失ってから気づくものがあるんだな…と。

安藤: 身体を壊してからも、生きてかなきゃいけないですもんね。

Kou: そうなんですよ。

秋山: 少し話をまとめると、「身体運用が上手くて魅力もある」パターンと、「畏怖、感動、見たことない」というところが魅力になっているパターン、ざっくり2つに分けたとして、後者の方は負のスパイラルというか、身体運用としては無理がある。その長年の蓄積によって身体と心が少しずつ壊れていってしまう。そういうことって確かにあるなと思いました。その上でどちらに行くか、どうダンスと付き合っていくか。「上手くなる」の定義をどこに置くか。

Kou: 色んな表現がありますからね。それらの表現自体は、全て肯定していかないとアートではなくなってしまうので。不健康なダンスがあっても、全然良いと思います。

真似できない人とスモールステップアップ

安藤: 僕が気になったのが「才能って何なのか」という話です。現代において「上手い」「才能がある」と言われるようなことって、エネルギーロスが少なく怪我しにくいことよりも以前にまず、「見た動きをコピーするのが上手い」ということだと思うんです。一回見ただけで同じ動きができたら「上手いよね」「才能あるよね」と言われるはずだし、たとえ身体の使い方が上手い人でも、「見て真似をする」というのが上手くいかない場合は「あんまり上手くない」と言われてしまう。それはそういう教え方がベースになっているからだと考えていて、教え方の問題はずっと引っかかっています。

Kou: そうですね。真似できる人と真似できない人というのは、脳の機能や幼少期の経験など要因は様々ですが、やはり存在します。
真似をするのが上手くない人に強要してしまうと、大脳の辺縁系(緊張する部分)が過剰活動してしまいます。なのでステップアップの方法がとても重要なんですよ。それを「プログレッション/リグレッション」と言っています。段階を上げるのがプログレッション、下げるのがリグレッション。
例えば「Aちゃんはできる、Bちゃんはあまりできない」という場合に、Aちゃんと同じことを求めてしまうと、プログレッションとして高いところにあるから、Bちゃんは挫折感を味わう。そうすると、脳としては抵抗状態になるんです。何をやったら良いのかわからない、スポーツ選手でいうイップスみたいな状態になってしまう。なので指導者はBちゃんのような子に対して、「この子はいまどういう段階なのか」というのを適切に見極めて指導する必要があります。
そうしてあげると、ステップアップした瞬間に自己所有感が高まるということがわかっています。自己所有感というのは、自分の身体が自分のものであるという感覚です。
上手くできないことをやらされ続けると、自分の身体なのに出来ない、自分の身体が自分のものではないような感覚が出てしまうんです。そうなるとやっぱり上手くいかないですよね。勉強がうまくいかない子もそうです。自分の身体がうまく扱えていない感覚が出てしまう。
スモールステップアップが超大事なんです。フルマラソンを走ろうと思った時に、いきなり20kmの練習をしないじゃないですか。まずは2km走れようになるところからやらせてあげないと挫折しちゃうんです。指導者はそういうやり方をしないといけない。これは断言します。

秋山: 私は「見て真似すること」は幼少期からやっていたので得意なんです。とはいえ、内観を伝えられないままに真似をすると、身体の形はトレースできるけど、どの筋肉をどう使っているかはわからない。外からは出来ている風に見えてしまう。それで起こることとしては、例えばアーチェリーをやった時に、姿勢は出来ているのに、全く当たらないとか(笑)。あとは最近ロードバイクを買ったんですけど、乗れる人に聞いたら「前傾姿勢だけどそんなに手に体重はかけないで、身体の軸を使った姿勢でいれば長距離走れる」と。でもそれって、外見をトレースしただけではわからないんです。どの筋肉をどう使うのか、「真似できる」と思ってしまわずに一つずつ教えてもらうことが重要だなと感じました。

Kou: 面白いですね。「他人から見た時の上手さ」という話もありましたが、実は「どう見えるか」というのも重要なんですよ。例えば、いま僕は画面に対して正面を向いて話していますが、正面向きと斜め向きとでは、自分の目の前にいる人の脳活動で起こることが全然違うんです。つまり、形が心を作ったりする。それは自分自身に対してもあります。元気なポーズをとれば元気になるし、俯いていると落ち込んでくる。
例えば、とある俳優さんは自分がどう見えるのかをミリ単位で調整するそうです。物の置き方のちょっとした角度も調整する。それによって自分の見え方が変わるので「感情なんか必要ない」と言うんです。どう見えるかを決めるのは観客だから、自分はそれを徹底的に追求すればいいだけで。そういうことってあるんですよね。人の形によって自分の心も決まるし、自分の形によって、目の前の人の脳活動も変わってくる。なので、顔や骨格に由来する才能というのも、やっぱりあったりしますね。

後半

(後半からは井戸端メンバーの有泉もトークに参加)

動きが形を作る

有泉: 有泉です、はじめまして。私もずっとクラシックバレエをやっていて、ある時たまたま紹介していただいてピラティスに行ったんです。そこで「身体にとって良くない身体の使い方でバレエを踊ってきているね」と言われて、それがすごくショックでした。それからは正しい使い方を教えてもらいながら、身体の無理のない所でやろうとしました。アン・ドゥオールを開きすぎないようにしたり、重心の置き方を変えたり…、立ち方を一つ変えると全ての動きやバランスがこれまでと違う感覚になってしまうから、バレエを全部一からやり直さなければいけないような感覚でした。
でもその時に、筋肉の形がどんどん変わっていくという経験をしました。以前は前腿やふくらはぎがパンパンに張っていたり、股関節も詰まっていたので腰も痛かったのですが、姿勢を直していくと、バレエの動きは一時期上手にできなくなるんだけど、脚は無駄な筋肉がスッキリ取れたような状態になりました。その時から「動き方ってすごく筋肉に表れるな」と考えています。ダンサーさんの脚を見た時に「この人はこういう踊り方をするんだろうな」と思ったりするようになりました。
それが先ほどの、徹底的に角度を追求するような「自分の身体をどう見せるか」にも繋がっていると感じます。身体の使い方を追求して、自分の理想とする筋肉のラインに近づけられたら、自分の印象をコントロールできたりするのかな、と。

秋山: 人の姿・形まで動きによって変わってしまうというのは、当たり前にも思えますが、かなり面白いことですよね。

股関節とアン・ドゥオール

Kou: これは本当に全ダンサー・役者さんにお伝えしたいんですけど、股関節の形状ってみんな違うんです。股関節って、骨盤のソケットがあって、そこに太ももの骨がパコンとはまるように出来てるんですが、骨盤側の受け皿が広い人もいれば小さい人もいるし、大腿骨の先が太い人もいれば、小さい人もいる。さらには、太ももの骨が骨盤の前側に付いている人もいれば、後ろ寄りに付いている人もいるんです。

Kou: 例えば大腿骨が前寄りに付いていて股関節を開くのが難しい人は、そもそも内股が正常な位置になるんです。そういう人が無理に股関節を開こうとし続けていると、骨と骨がぶつかってしまって痛みが出たり、ぶつかっている部分の骨がだんだん太くなって、コブができてしまったりします。コブができてしまったら、股関節をあまり動かさないように生活するか、手術で切るしかない。
なので自分の股関節の形態を知っていないと、無理を続けてしまって、どんどん良くない状態になってしまいます。人によっては「ちょっと開く」ぐらいでちょうど良く、そこが一番筋力を発揮するんです。強い力で股関節を開こうとすると脛の骨が外に向いてしまったりして、膝が外に向いていないのに爪先だけ外に向いている人はバレエダンサーに多いです。そうなると関節の位置が安定しないので、本来の力が発揮できません。

秋山: そうですよね…。良くない筋肉の使い方でも、慣れてしまうと自分では全然わからない。とはいえ医学的・解剖学的な知識のあるバレエの先生も少ないような気がします。その人の身体に適した指導を受けられていない状態では、Kouさんのような方に出会えないと、怪我につながる人が出てきてしまいますね。

古典的な態度の教え

Kou: そういった意味では、伝統芸能ってすごいですよね。何年も積み重ねてきて「こうすると良い」というやり方もわかっているから、あまり問題も出にくい。一応バレエも伝統芸能ではあるんですけど、バレエには色々な流派があるじゃないですか。そして恐らくクラシカルなものが伝わっているところは少なく、先生方が自分の探索を伝えていってしまって、それが現代まで至っている。能や歌舞伎ほど厳格じゃないと思うんです、街のバレエスクールで誰もが受けられるようなものだから。

白井: 安藤くんが前に何度か話していた「型の匿名性」という話にも繋がる気がします。バレエや近代以降のダンスって、格闘技などと比べると個人にメソッドが依存していて、「誰々さん流」というのが強いのかなと。そうすると、その先生の自己流で無理をさせてしまいがちなのかもしれません。

安藤: そもそも格闘技はそんなに伝承が厳密ではなくて、個々人でできる幅が割と広いんです。「絶対に手や足がこの位置でなければいけない」みたいなことではなく、曖昧な言葉でやりとりしていたりします。「体を締める」とか。ぴっちり全部を決めきって「こうじゃなきゃいけない」というのとは違う伝承がされていた、という部分では関係するのかなと思います。
「型の匿名性」については源良圓の『型』という本※1に書いてあるんですが、型というのは身体運用だけじゃなくて、「朝は “おはようございます” と言いましょう」「ご飯を食べる時には “いただきます” を言いましょう」みたいなことも含まれています。それらは誰かのものというより、なんとなくみんなが生活の中で身につけているものであり、それが「型」と呼ばれる条件であると。個人に依存しないという意味でいえば、「型」のある文化が身体を壊しにくいという側面も(必ずしもそうではないですが)もしかしたらあるのかもしれません。
どの程度まで許容されているか、というレベルの違いのような気もします。バレエでは確実にみんなが揃わないといけないシチュエーションがありますよね。一人だけ内股だったら、みんなで並んだ時に目立ってしまう。能や歌舞伎は基本的に個人で動いていくから、その人の形をある程度は許容するような土壌や考え方があるのかもしれません。どの程度その人の身体の個性を認めてあげられるかが重要だと思っていて、でもそれは、ダンスだから出来ないということは無い気もします。

Kou: 面白いですね。ヨガをやり始めてから勉強したインドの古典哲学の教えが非常に面白くて、そこには安藤さんがおっしゃっていた「おはようございます」のような態度の教えがたくさんあるんですね。例えば「暴力的になってはいけない」「口で話す言葉や身体で示す態度を綺麗にしていなさい」「自分と他の人との繋がりを感じ続けなさい」「自分や他の人の身体の中にに神様がいることを感じ続けなさい」など。そういった態度の実践が書かれていて、身体の動かし方についての文章は少なかったんです。そのことを思い出しました。「型」の話にも通じる気がします。

安藤: 古い教えでは具体的な動作の話が残りにくい、というのは当然あるのかなと思います。武術でも、古い文献はメンタルや態度の話が非常に多いです。

白井: そう聞くと、バレエの昔の教本を読んでみたくなりますね。ルイ14世の時代に書かれたものとか。もしかしたら「ご飯を綺麗に食べなさい」みたいなことが書いてあったりするのかも。

生活する身体から生まれるダンス

秋山: 「型」や古い教えとは逆の考え方かもしれませんが、バレエの、特にコンクール上位のスタジオでは、「正座をしてはいけません」とよく教えられると聞きます。

有泉: 私も「正座をしてはいけない」とずっと言われていました。「O脚になるから」と。真偽はわかりませんが、私はO脚を気にしていたので絶対に正座をしないようにしていました。
態度が「型」になっていたという話を聞いて、生活をする中での身体の使い方が、その文化圏でのダンスや舞踊に繋がっているんじゃないかと思いました。「正座をしちゃいけない」というのも、フランスなどヨーロッパの人たちが正座をする文化がないから、という意味合いもあったのかなと。舞踏や日本舞踊のように、農作業の低重心な身体に根ざした踊りもありますよね。それぞれの文化圏で、日々の生活の中での身体の使い方がダンスのベースになっているのかな、と考えていました。

秋山: Kouさんにお聞きしたいんですが、私は、例えば「バレエと乗馬は一緒にやるな」と言われたことがあります。バレエで言う2番プリエ(両足を左右に開いて立ち、膝を曲げたポジション)の状態で、内腿を締めるように力を入れるのが乗馬で、そうではないのがバレエなので、両方を一緒にやると身体に良くないと。
例えば「上手い身体の動かし方」を考える際に、ジャンルに寄った筋肉のつき方、西洋のダンスをやるのであれば西洋的な身体や筋肉の形があると思うのですが、やはり何にでも対応できる身体を作っていくべきなのでしょうか。

Kou: その先生が示しているものをやっていきたいならば、たぶん先生の言う通り乗馬とバレエを一緒にやらない方がいいんだと思います。ですが、基本的にはヒトってどんな状態でも対応できるのが良い身体なんです。
筋肉の収縮にも色んなパターンがあります。伸ばしながら収縮されている状態もあれば、キュッと縮めながら収縮するパターンもある。たぶんバレエは伸ばしながら収縮している状態を使っていて、これを遠心性収縮といいます。乗馬というのはどちらかというと等尺性収縮といって、伸びても縮んでもいない状態で筋肉を使っている。このように色んなパターンがあるということは、色んなパターンを使ったほうがいいんです。
「ある」ということは、必要だからあるんです。ヒトとしての機能を高めていくのならば、あるものは全部使っていかないと。「それって、アマゾンでも生きていけるの?」ってトレーニング中によく言うんです。そのダンスだけに特化したいのか、それともヒトとしての動きを追求していくのか。それによって答えは変わってきますが、どっちが健康的なのかというと、僕は多様に動ける方だと思います。

有泉: Kouさんがおっしゃっている「ヒトとしての機能を高めていく」というのは、色んな筋肉の使い方や身体の使い方ができる方が、野生界で生きるレベルが上がる、というイメージですか? 免疫力が高まるとか、そういうことが…?

Kou: まぁそういうこともある…かどうかわからないですけど(笑)、野生界では生きていきやすいでしょうね。さっきの話にも通じるんですけれど、パソコンばっかりしていると視覚が固定されるし、視覚が固定されていると、後ろから襲われた時に全然対応できない。聴覚も、ずっとイヤホンをしていたら、森の奥からガサッと音がした時に対応できない。何かが飛んで来た時に「避ける」という動きを普段していなかったら、咄嗟に来た時に避けることができずにぶつかっちゃうかもしれない。色んな経験をした方がいいんです。だから、「やりたいことをやれば」「やりたい運動をしたらいい」っていつも言っています。

遊べ!Play!

Kou: 人生、遊んだ方が良いと思うんです。人生を遊んで多様な刺激をどんどん入れていけば、それがバレエであろうとヒップホップであろうと、芸事に必ず活きてくるはずなんです。とにかく遊ぶ。
僕のすごく尊敬している方が、「遊べ!Play! 」ばかり言うんです。さらに「昨日遊んだことを今日もするな」「違う遊びをしろ」と言います。「あなたの中に一度できた動きがあったら、その動きは二度とするな「次に遊べる相手(動き)を探して、動き続けろ」と。
例えば、あなたがバスに乗り遅れたとしたらどうするか。 諦めるのではなく、「間に合わなくても良いから追いかけろ」と言うんです。「バスとPlayしろ」と。「トレーニングする時間がなかったらどうするか。奥さんとトレーニングしろ、犬とPlayしろ。5秒Playしろ。言い訳をするな、人生を遊び尽くせ。遊び場から逃げるな。
僕はそれを聞いた時に、本当に感動して。「そうだよな、トレーニングの本質って『遊び』だよな」と、電気が走ったんです。だから僕は「トレーニング」ってあんまり言わないで「遊びましょう」と言います。遊びこそが、ヒトの動きを良くしていく。だから、Play, play, play! です。

秋山: いや、一番大変なことじゃないですかね、きっと…。常に新しいことをする、というのは。

Kou: 確かに、ヒトって、新しいことを出来ないように脳が設定されているんですよね。安心する場にいようとする設定があるので、新しいところに行くのが怖いんです。でも新しいところに行くと、脳の神経がバンバン繋がってくるんですよね。それは僕自身、非常に感じていることです。ダンサー時代は、やはりそれ(ダンス)しか頭になかったんですけど、今こういう風にトレーナーになって、色んな情報を仕入れたり色んな体験をしていく中で、脳の回路がバンバン繋がっていく感覚がある。

白井: 今のお話を広く「遊び」というイメージで受け取っていましたが、小さな「ダンス」の中でもそういうことってあるなと思いました。1人で稽古していると、どうしても自分の知ってる動きしか出てこない。特にコンテンポラリーダンスをやる人は、自分がやったことのない新しい動きを見つけたり出会ったりしたいと思っているけど、なかなかできない。そんな葛藤を抱いているダンサーは多いんじゃないかなと思います。1人だけで自分の安心している動きの外へ出るのは、きっと難しいんでしょうね。そういう時に別の人や別の場所、別の物の力を借りるというのは、必要なことなんだと思います。

Kou: これも人から言われたことなんですが、「人は1人では、完璧になれる」というんです。1人では完璧になれるけれど、それは所詮1人での完璧であり、自然界というカオスに出た時に使い物にならない。つまり「誰かと遊び続けろ」とその人は言います。誰かと/何かと遊んだ時にカオスがやってくるから、その混沌の中で遊び尽くせ。まさにそれですよね。1人でやる動きは1人の中では完璧になってしまうから、何にも使えない。

秋山: 舞台やダンスの中でも「新鮮にやれ」ってよく言われるけど、決められたことを決められた空間でやるという条件があり、音楽や時間的制限もあり…。 「ブラックボックスで体調が悪くなる」という白井さんの話も、わかるところがあります。空気がコントロールされている感じが、かなりある。

白井: しかもそこに作品を自分の名前で出すとなると、自分1人だけの完璧を作って出そうとしちゃいますね。「そうしないと無理」って思ってしまいがちだな。

秋山: 共演者がいて、そこで本番ごとに遊べたら気持ちが変わっていくのかもしれないですけど…。結構、精神的にも視野が狭くなりますよね。

演じている時の2人の自分

秋山: 先日見た映画の「ドライブ・マイ・カー」※2では演劇が題材になっていて、その練習ではひたすら覚えこむ、しかも感情を込めずにテキストだけを追っていって、動きをつけないという演出方法をとっていました。そして本番でやっと動いた時に、流れの中で自然に自分の言葉としてセリフを言える。
その場で反応して毎回新しくやる、そのための手法は色んな人が色んな試みをしていますが、だからこそ難しいですよね。

安藤: スポーツはその連続みたいなものですけどね。その場で理解して、その場で反応して。

秋山: スポーツは道具があるからか、不確実性が高いじゃないですか。そこの違いなんじゃないかな。

安藤: 不確実性も高い中で、自分のやりたいことが出来ること、相手のやりたいことをさせないこと。そのためのテクニックがあるんですよね。変化する環境の中でどうやって動いていくのかを考える技術が存在する。その技術をスポーツ屋さんは持っていて、ダンスはダンスでまた違う技術を持っているはずなので、それぞれのメソッドがあるんだと思います。

Kou: 役者さんが演じている時に脳がどういう状態になっているか、という脳科学の研究があります。その研究では「脳の中では完全に意識が分割している」という結果が出ていました。どういうことかというと、役になっていると同時に、自分自身を監視している状態になっている。つまり演じている時には2人の自分がいる、ということがわかったんです。

安藤: うちの父は人形劇の仕事をしているんですが、上手くいっている時は「自分の姿が後ろから見える」と言ってました。もともと人形劇だから、舞台上に出ている人形がどうなっているのかをイメージする視点は常にあるそうなんですけれど、それがさらに上手くいっている時には、自分の身体まで後ろから見えるそうです。

Kou: サッカーでも「鷹の目」という、上から見える感覚があると言いますよね。先ほどの役者の脳の研究も踏まえると、そういう(演じている自分自身を俯瞰するような)現象があるんでしょうね。ちなみに、その役者の研究で活性化していたのが、先ほど話した脳の頭頂葉の部分なんです。視覚や聴覚と関係して、身体の関節や筋肉の感覚を賦活させる場所。
感覚を開いておく、色んな感覚を入れて刺激しておくって重要なんだなと、改めて再認識させていただきました。

満員電車でもワクワクできるマインド

秋山: 感覚を開いておくことはすごく大切だと思いますが、満員電車にその状態で乗ってしまうと大変じゃないですか。それって、どうコントロールすればいいんでしょうか。私の好きなダンサーさんは舞台上での感覚がとても鋭い方なんですが、「この感覚のまま東京で日常生活を送るのは大変だから、自分で開く・閉じるをやるんです」と話していました。

Kou: 自然での刺激と人工物の刺激って、確実に違うんですよ。おそらく、我々の身体は人工物からの刺激にはまだまだ対応できていないんだと思います。だけど僕は、電車の中でも「何をしたら遊べるか」というのを考えていて、それを指導することもあります。例えば電車の中で近くに人がいたら、「この人との関係性を考えながら、別の人が立てる音を耳で聞いてみよう」とか。あとは電車の中にいるとグッと刺激がかかるので、やっぱり身体が固くなるんです。固くしないためにはどうしたら良いのかというのを、カオスな中で遊ぼうとする。
もっと言ってしまえば、ドラゴンボールの孫悟空※3ですよね。孫悟空って強敵が出てくると、たとえ殺されそうになっていてもワクワクしちゃうんです。だから、どんなネガティブなことがあったとしても、そのネガティブなことを一種の混沌として捉えて、その混沌の中に置かれている自分をどう遊べるところに置いておくか…という脳の認知を、毎日作るんです。そうすると、ネガティブなことに対しての対応が全然変わってくる。だから「常に孫悟空であれ」と思ってます。
ネガティブなことや嫌な人が来た時こそチャンスなんですよね。ありがたいというか。「この人は今の自分の課題を教えてくれる先生だと思え」、これは古典哲学にも書いてあります。ネガティブなことがあった時には自分の課題を教えてくれる先生だと思って、その課題とどう付き合っていくか。すぐには変わらないので、どんなことでもワクワクできるようなマインド設定を徐々に作っていってあげる。それが大事だなと思って指導しています。

安藤: マインドの話になってきましたね。佚斎樗山という人が書いた「天狗芸術論」※4という江戸時代の武術の古典文献があります。剣術で悩んでいる人が、山に入って天狗に剣術を教えてもらうストーリーで、その中で「なんで剣術をやる人が、禅をやっているお坊さんに刺激を受けるのか?」という話がありました。その本いわく、剣術をやっている人はなぜ剣術をやっているかというと「死にたくないから」で、生きよう生きようという気持ちが強い。その気持ちが強すぎると、凝り固まってしまって良くない。禅僧というのは「生きようとしていない」と。なので剣術をやる人が禅僧のような人に会うと、そっちに引っ張られてバランスが取れる。では禅僧になれば良いのかというとそうではなく、「生きよう」という気持ちと「まぁ生きてなくてもいいや」という気持ちが自分の中で引っ張りあって、バランスが取れると上手くいく、と。
今の「ワクワクする」という話も、その気持ちとネガティブな自分とが上手く引っ張りあってバランスを取るのがちょうど良いのかもしれません。常にワクワクしっぱなしというのも、それはそれで疲れるような気もするので。でもネガティブが足りないということは世の中的にも無さそうで、基本的にワクワクの方が足りないから、ワクワクを意識しているほうが良いのかも。

Kou: おっしゃる通りで、ネガティブを感じる脳の部位が全体的に優先的に働くんです。そうしないと危険を逃れることができなかったから。ただ、今は危険だと感じなくても良いようなことまで、危険と感じるようになってしまっています。獲物に食べられないために不安を感じる脳が優先的に働くようになっていたのに、今では対人関係など色んなことに働くようになってしまったので、心の病気も増えてきた。
で、やはりそれを止めていくのは、人間らしい脳みそである大脳新皮質の部分なんですよね。運動したり、色んな感覚を入れたり、考えたり、ワクワクするような能動的な行動力を持ったり。そうすることでバランスが取れるというのは、確かにあるんじゃないかなと感じました。
今日は「“上手くなる” 思考法」ということでしたけど、「心技体」とも言うように、個人的には心の状態や態度を養っていくというのは必須事項だと考えています。人間が破綻しているのに舞台の上では素晴らしい方もいっぱいいらっしゃいますが、それはそれとして個人的には、態度を作っていくのは大事かなと。それは脳の機能などを見ても、間違いないと思います。

(※1)源了圓『型』(創文社, 1989年) 

(※2)濱口竜介 監督『ドライブ・マイ・カー』2021年, 配給:ビターズ・エンド (オフィシャルサイト)

(※3)孫悟空:鳥山明による漫画『ドラゴンボール』(集英社, 1984-1995年)の主人公。

(※4)佚斎樗山, 訳注:石井邦夫『天狗芸術論・猫の妙術 全訳注』(講談社, 2014年)

編集者メモ:
イベントレポートが毎度とても長くなってしまってすみません。これを何年も後まで残しておくことには意味がある、と信じて記録しています。読んでくれてありがとうございます。
Kouさんのお話を聞いて、心と身体の健康を大切にしながらアートやダンスをやっていくことに、もっと自信を持って良いんだと思いました。やっぱりどうしても、なりふり構わず睡眠時間も少なく鬼気迫る勢いでやっている人と比べてしまって、引け目を感じがちなんですよね。各自が堂々とやりたいようにやれる世界にしていきたいです。

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この記事を書いた人

振付家、ダンサー。立教大学映像身体学科を2010年に卒業。現在は主に2人組ダンスユニット「アグネス吉井」として活動。街を歩き、外で踊り、短い映像を数多くSNS(@aguyoshi)に投稿している。

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