役に立つダンス(もしもダンスが無かったら)

トークセッション「社会とダンスのミーティングポイント」の中で議論の中心となった問いの一つは、「社会におけるダンスの役割とは何か」であった。また、その答えを探すための手がかりとして「もしも世界からダンスがなくなったら」という思考実験が投げかけられた。

ダンスと一言でいってもその在り方は様々だが、当日のトーク時間内では論点を整理することができなかったように思う。ここでは、本田郁子・薫大和『人はなぜおどるのか―踊りがむすぶ人と心 (10代の教養図書館)』(ポプラ社, 1995年)に倣って、ダンスを「おどる踊り」と「見る踊り」に分けた上で、特に「おどる踊り」が社会の中で果たす役割について考えてみたい。

踊りを「おどる」理由

盆踊りなどの地域に根付いた踊りは勿論のこと、路上で踊るブレイクダンス、家で練習するK-POPダンス、習い事としての日舞やバレエ、クラブで踊ること、学校の体育の授業に組み込まれたダンスなど、「おどられる踊り」は巷に溢れている。それらは必ずしも「プロのダンサー」を目指して訓練されるものではない。

プロのダンサーになりたくなくても、人は踊ることがある。なぜだろうか。

1. 心身の健康のために踊る

まずは「運動不足の解消になる」という名目で、ダンスが役に立つと考えられる。

だが、単なる運動不足解消が目的であればリングフィットアドベンチャーフィットボクシングの方が達成感もあって継続しやすそうだし、ポケモンGOピクミンブルームなどに力を借りて行うウォーキングの方が、手軽に取り組めそうではある。 他にもジム通いやジョギング、筋トレなど、「運動不足の解消」だけが目的であれば、簡単に代用できる手段がダンス以外にいくらでも存在する。

しかし近年、ダンスには認知機能の向上ストレス解消精神面への働きかけに効果がある、といった研究も行われている。

同大学の沢見一枝教授は「脳が活性化し、介護予防に一定の効果があることが確認された」と解説する。

シニアに人気ヒップホップ 医大や自治体、効果を検証|NIKKEI STYLE

脳の認知機能が13%向上、手の協調運動が8%向上、姿勢保持力やバランスも25%向上。反対に、ダンスをしなかったグループではこれらの能力が下がったというから、その価値は大きい。

ベストセラー脳科学者が強くダンスを推す理由 | 健康 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

スウェーデンの研究者が十代の少女112人を対象に研究を行いました。彼女たちはそれぞれ、背中や首の痛み、不安、うつ病、ストレスなどに苦しんでいました。彼女たちの半数を毎週ダンスレッスンに参加させる実験から得た結果は、毎週ダンスを行うことで、精神的にも健康になり、気分が高揚する効果があるということが判明したのです。

ランニングやジム通いよりも、「ダンス」がストレスに効く理由 | TABI LABO

また、芸術療法として「ダンス・セラピー」という分野も存在しており、身体の動きを通して精神的治療を行うとされている。
参考:日本ダンス・セラピー協会

このように個人の心身の健康に対してダンスがいくつかの効能を持つ、と考えられていることはわかった。

ではここで、人間という生物からこの機能が無くなったらどうなるのかを考えてみよう。
単に「健康向上の手段を1つ失う」というだけならば、代わりの手段を探せばよいので大した問題ではない。しかしきっとそれだけでは済まないだろうと、私は想像する。

人間の身体から「ダンスをする」という機能が完全に無くなったら?

そもそも人はなぜ「踊れる」のか。
このことを考えるためには、踊れる動物について考えるのが近道である。踊ることができるとされる鳥類、オウムについての研究を参照したい。

オウムは、リズムを認識することができるということがわかっている。つまり、等間隔で「ピッピッピッ」という音が鳴っている時に、次の「ピッ」のタイミングを予測する能力を持っている。さらにリズムを認識した上で、外部からやってくるリズムに合わせて身体を動かすことができるのだ(同調運動)。
参考:関義正, 音楽リズムに対する同調運動の起源に挑む比較認知研究, 動物心理学研究 第69巻第2号,2019

踊るオウムとして世界的に有名なスノーボールくん

様々なテンポに合わせて自在にリズムへの同調運動を行えるのは、人間以外では今のところオウムアシカだけということになっているらしい。
参考:踊る動物に音楽誕生の謎を探る | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

仮に踊ることを「音楽に同調して身体を動かすこと」と定義した場合に、特定の生き物(人間、オウム、アシカ)だけが踊ることができる理由は、リズムを認識して同調する能力をもっているからだと考えられる。

つまり「人間の身体が踊る能力を失う」ということはすなわち、リズムを認識して同調する能力を失うということになる。だとすれば、リズムに対して脳が快感を覚えるということも無くなるので、現在のような形の “音楽” はこの世から消え去るだろうし、音楽だけではなくリズムを好む人間によって作られた世界の姿がまるごと変わってしまうだろう。視覚的なリズムも含め、全ての人工物がリズムを必要としなくなったらどうなってしまうのか…、まるで想像ができない。

また、踊る能力が「発声模倣能力」と関係しているという説もある。(オウムやインコは踊れる以外に、声真似ができるという特徴を持つ。)ということは、踊ることのできない人類からは、もしかしたら音声言語による伝達能力も失われてしまうのかもしれない。
参考:インコがリズムに合わせて運動できることを確認(リズムをとる行動と発声模倣能力に関連があることを示唆)|独立行政法人 科学技術振興機構

2. コミュニティ維持のために踊る

さて、踊りは「個人の心身の健康のため」だけに踊られるわけではない。

祭りの中の踊りに代表されるように、コミュニティの醸成や維持、仲間との一体感を得ることなど、コミュニケーションツールとしての役割を果たすダンスが世界には多数存在する。

大人数で踊ることによって身体同士が共振し、引き込み※1の現象が起こる。集団のうねりに身をまかせて踊ることでトランス状態に入りやすくなったり、強い快感を覚える。大勢で集まって踊ることは、人々を夢中にさせる。
(※1)引き込み現象… 異なる振動のリズムが次第に揃っていくこと

また、祭りや儀礼、その中の踊りを無事に成立させて円滑に遂行するためには、必然的に人々の結束が強くならざるを得ないという側面もあるだろう。前掲書『人はなぜおどるのか 踊りがむすぶ人と心』の中では、100人以上の演者が結集しないと成立しないインドネシア・バリ島の「ケチャ」や、村同士が水を奪い合って争うことを防ぐ愛媛県宮脇の獅子の芸能について紹介されている。

みんなで一緒に踊ることが『禁止』されたら?

では、大人数で一斉に踊ることが取り上げられた世界は、どうなるだろうか。
コロナ禍はその状況をシミュレーションしていたと言えるだろう。大勢で踊ることは禁止、または自粛された。

一晩中踊り明かすことで有名な「郡上おどり」は、2020年・2021年ともにオンラインのみで行われ、2020年はzoomでのリモート参加企画が実施された。しかし、とあるドキュメンタリー番組で紹介されたエピソードでは、毎年郡上おどりに参加するのを楽しみにしていた人がzoomでのリモート郡上おどりに参加してみて、「やっぱり現地でみんなと一緒に踊りたかった」と漏らしていた。やはり大勢で集まって踊ることの魅力は(今の技術では)生でなければ味わえない。そのことは自分の実感と照らし合わせてみても容易に想像できる。
参考:郡上おどり、400年で初リモート 伝統の祭り多様に:日本経済新聞

また、井戸端トークセッションの中では「規制されればされるほど、みんな踊ろうとするのではないか」という意見もあった。クラブでのうどん踏みが話題にのぼったが、他の例としてアイリッシュダンスの起源が挙げられる。イギリスの支配下で踊ることを禁止された時代に、窓の外から見られてもばれないように、下半身のみでリズムを刻むダンスが誕生したと言われている。
参考:風営法に対抗? テクノに合わせてうどんを踏む若者
参考:アイルランド発祥の「アイリッシュダンス」とは?特徴やダンス動画を紹介 | | Dews (デュース)

やはり法や制度によって禁止されただけではダンスは無くならないし、みんなで一緒に踊ることの快楽を知ってしまっている人間たちは、なんとか工夫を凝らして踊ろうとするのだろう。

踊りを「見る」理由

ここまで、人間が踊りに何を求めているのかを「踊る人」中心に考えてきたが、上記で述べたことのうちの幾つかは「踊りを見る人」にも当てはまるのではないだろうか。

さすがに運動不足はダンスを見るだけでは解消できないが、ダンスから受ける視聴覚へのリズミカルな刺激はパターン認識※2による快楽を生み出す。また、ミラーニューロンが働くことによって、ダンスを見終わった後にまるで自分も踊り終わったかのようなスッキリ感やリラックス感が得られる場合があるかもしれない。ダンスの「場」に巻き込まれるような体験によって、その場にいる人たちとの一体感や、コミュニティへの帰属意識を感じることもあるだろう。

(※2)パターン認識とは、画像・音声などの雑多な情報を含むデータの中から、一定の規則や意味を持つ対象を選別して取り出す自然情報処理のこと。ダンスに快感を覚える脳の仕組みとして、参考文献の中で紹介されている。以下に引用する。

踊りのなかのどのような情報が、こうした神経回路に快感を発生させるのでしょうか。

このなぞをかんがえるうえで、ヒントになるのが「パターン認識」というしくみです。これをごくかんたんにいうと、脳のなかにあらかじめ快感をひきおこす情報の見本になるモデルパターンというものが用意されていて、わたしたちが見たりきいたりした情報の特徴が、このパターンのどれかと一致したときに快感が発生るす、という考えかたです。

本田郁子, 薫大和『人はなぜおどるのか―踊りがむすぶ人と心 (10代の教養図書館)』ポプラ社, 1995年, p.134-135

自分では踊りたくないけど、ダンスは見たい

今回のトークゲストである鄭さんと野村さんは、どちらも「ダンスを見るのは好きだが、自分が踊るのは絶対に嫌だ」という立場だった。そんな人たちにもダンスの愉しみを味わってもらう、そのためにプロのダンサーが踊るのだとしたら、なかなか踊り甲斐があるように思う。ダンスを見たい人と踊りたい人とのWin-Winの関係であると言える。

それだけではない

ダンスは確かに、人や社会の役に立つことがある。しかし、上記に述べたようなことだけがダンスの存在理由ではない ということは、ダンスに関わる人なら誰でも体感としてわかっているんじゃないかと思う。

踊る理由や踊りを見る理由は人の数だけ存在するし、簡単に割り切れることではない。それでも、ダンスの効能や、人がダンスを好むメカニズムを解明しようとすることは面白い。
「踊る阿呆に見る阿呆/同じ阿呆なら踊らにゃ損々」というのは阿波踊りの歌い出しであり、ここでは「踊る人」も「踊りを見る人」もどちらも阿呆とされているわけだが、今回調べたようなことを知るにつれて、阿呆には阿呆なりの事情や動機があるのだな、と思えてくるのだった。

参考文献
本田郁子, 薫大和『人はなぜおどるのか―踊りがむすぶ人と心 (10代の教養図書館)』(ポプラ社, 1995年)

この記事は、[第1回] ダンス問い掛け連続トークセッション に関連して書かれた個別レポートです。
» イベント概要 » イベントレポート

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

振付家、ダンサー。立教大学映像身体学科を2010年に卒業。現在は主に2人組ダンスユニット「アグネス吉井」として活動。街を歩き、外で踊り、短い映像を数多くSNS(@aguyoshi)に投稿している。