《イベントレポート》[第1回] ダンス問い掛け連続トークセッション

東京都教育委員会・東京スポーツ文化館の令和3年度チャレンジ・アシスト・プログラム(活動助成事業)に、この度、私たち〈ダンス井戸端会議〉のプロジェクト「ダンス問い掛け連続トークセッション」が採択されました。
2021年11月15日(月)、その第一回目として「社会とダンスのミーティングポイント」をテーマに、約3時間のトークセッションをオンラインにて行いました。ゲストは、舞台芸術と社会との接点を探し実践するフリーランスのプロデューサー 鄭慶一さんと、社会に根をおろしながら舞台芸術の味を知ってしまった野村稔さん。トークでは「ダンスを相対化し、社会とのミーティングポイントを考えてみる」ことを探り、台本なしの井戸端会議をしましたが、社会をどう想定するか、どのように関係性をつくっていくかというダンスに留まらない話が繰り広げられました。
その際の前半トーク部分の編集記録を掲載します。

イベント告知ページはこちら


[第1回] ダンス問い掛け連続トークセッション

<社会とダンスのミーティングポイント>
鄭 慶一(アートマネージャー/プロデューサー)× 野村稔(スタートアップ企業/人事)× 井戸端メンバー(ダンス)

日時:2021年11月15日(月)20:00〜23:00ごろ *このイベントは終了しました
場所:オンライン(YouTubeLIVE配信)
参加費:無料

ゲスト:鄭慶一(アートマネージャー/プロデューサー)、野村稔(スタートアップ企業/人事)
運営・進行:ダンス井戸端会議(秋山・白井)
配信協力:野村稔
配信視聴申込者数:20名
後半クロストーク参加者:9名

テキスト:秋山きらら

主催:ダンス井戸端会議
協力:東京都教育委員会・東京スポーツ文化館

鄭 慶一さんのやってきたこと

「1年に1回だけ僕に何かをやらせてください」

秋山きらら(以下、秋山):第一回目の今回は、舞台芸術と社会との接点を探し実践するフリーランスのプロデューサー 鄭慶一さんと、社会に根をおろしながら舞台芸術の味を知ってしまった野村稔さんをゲストにお迎えし、「社会とダンスのミーティングポイント」を3時間かけて探っていきたいと思います。
さっそくですが、鄭さんより自己紹介とこれまでの活動をご紹介いただけますか?

鄭慶一(以下、鄭):よろしくお願いします、鄭慶一(チョンキョンイル)と言います、今年35歳になります。在日コリアンの3.5世です。曽祖父が福岡県の田川に渡ってきて、4世の父と3世の母の元に生まれました。
生まれも育ちも福岡県の北九州市で、大分県にある大学に進学しました。その後内定を取り消されて休学し、東京で少し働き、震災後に北九州に戻った後、大学を卒業する時に北九州市にある枝光本町商店街アイアンシアターという民間の小劇場を見つけました。面白そうだなと思って4月から働けないかと願い出て、そのままアイアンシアターの制作部に入りまして、その1年後アイアンシアターのディレクター兼運営責任者に就任します。そこから2019年の3月までアイアンシアターを運営するんですけれども、基本的には貸し館で自主プロジェクトもいくつか行っていました。
2014年〜2019年の毎年10月には、枝光本町商店街の道路を封鎖して野外の舞台芸術のフェスティバル「枝光まちなか芸術祭」というのをやりまして、後ほど詳しく紹介したいと思います。そして昨年2020年の4月からフリーランスとして活動しています。

枝光まちなか芸術祭

先ほどご紹介した「枝光まちなか芸術祭」ですが、2014年の10月から2019年まで、毎年10月に開催された福岡県北九州市の枝光という町を舞台にした野外舞台芸術フェスティバルです。
これがその時のフライヤーなんですけれども、これは2019年ですね。9団体出演いただいて、コンテンポラリーダンスの方が主になっております。道路を封鎖して踊ったりはしゃいだり、作品を上演したりしています。

で、何がやりたかったかというと、別に商店街を盛り上げようとしてやっていたわけではなくて、枝光本町商店街というところがすごく素敵な場所で、道路を封鎖していろんな人が踊ったりするのが非常に楽しいんじゃないかと。そう思い、商店街の方々にお手伝いをして「1年に1回だけ僕に何かをやらしてください」ということを許してもらう。だからこのフェスティバルは商店街振興とか、社会と舞台芸術をつなぐとか言うことではなくて“ただの僕のわがまま”をいろんな人を巻き込んでやるというだけのフェスティバルです。
「商店街で遊びましょ」というのをコンセプトに舞台芸術という機能と装置を使って、商店街で遊んでいただくというフェスティバル。開催3日間で1000人くらいが来るか来ないかという、まあちっちゃなフェスティバルです。計5回実施して、かなり全国からいろんな方にも来ていただきました。

東アジア文化都市北九州「Art for SDG’s」 参加作品「まちクラ」

もう一つが「まちクラ」ですね。僕と、川口智子という東京の演出家と、田坂哲郎という福岡の作家と3人でつくりました。本来であれば東アジア文化都市北九州は昨年だったんですが、コロナ禍で1年延期して今年の4〜5月の1ヶ月間、北九州市内の中学生から高校生を対象にしたいわゆるワークショップを行い、最終的にそれを美術の展示として出展するというプロジェクトです。28名くらいが参加してくれました。
実際にワークショップを行った会場の様子がこちらです。


アイアンシアターの劇場全体を装飾して、子どもたちに町をつくってもらうということをしました。僕は北九州が好きなんですが、自治体は歴史的な建造物をスクラップアンドビルドしちゃったりだとか、集客メインの企画をするが北九州市には全然お金が落ちないみたいなことが起きたりするので、そういうことではなくもう少し地道に北九州が好きな人を増やすということをやりたかった。単純に北九州が好きだと思っている人間を増やすために、子どもと一緒に町をつくってみる・町をどういう風に見ているかという視点をみんなで共有してみるということをやろうと思い、このワークショップを行いました。
子どもたちと町をつくるにあたって一番はじめにチーム内で「いや、町なんてつくりたがらないだろう」という話になりまして、「そりゃそうだよね」と。町をつくることに主体的になってもらうためには、まずは神様になってもらおうという話をしました。なのでこの1ヶ月間は神々の神話の期間で、「自分たち神様が住む町をつくる」みたいな設定にしています。初日にまずはみんなで神様になってもらいました。海の神様もいれば、バナナの神様もいて、いろんな神様が少しづつ“資源”を使って家なり商店なりをつくっていって、だんだんと町ができていくという。そうすると「道路が狭くなってきたぞ、ここは誰の土地なんだ!」「そんな決まりはない!」ということだったりとか、少しづついろんな問題が生まれてくる。

これはお金を作っているんですが、お金の単位が1“ヒマ”なんですね。暇をすごく大切にしようという概念がありまして(笑)、ただこれ最終的にハイパーインフレーション的なことが起きるんですけれど。「この町にお金は必要ない」って言って、お金を鎮める祭りをしていたりします。
無事に町ができたあとに、作品の展示自体は別の場所でしなくてはならなかったので、ワークショップの会場からお引越しをしなければならないと。これを“移住”と名付けてとにかく引っ越さなきゃいけないんだと、「新しい場所に行って私たちの町を見てもらうことになる」ということを子どもたちに伝えて、何を持っていくのかを選んでもらいました。実際に自分たちでリアカーを引いて歩いて町を持っていって、最終的に約1週間の展示をしました。

舞台芸術のジャンルだったり作品から何かを立ち上げるというよりは、この町っていうのはこうだよね、だからこういうことを舞台芸術でしようというような。オーダーがあって、それにフィットする形で自分が持っている商材として舞台芸術を使っていくという考え方で、いろんなプロジェクトを作っています。

野村稔さんのやってきたこと

人を支える立場から、コミュニケーションを使って個人と組織の良い関係性をつくっていこう

野村稔(以下、野村):今日は主に鄭さんのお話を掘り下げていきたいと思うので、僕の自己紹介はさらっといきたいと思います。学生時代は自分で映像制作とか写真撮影をやってまして、クリエイター活動をやっていたんですが、周りに本当に狂ったように映像制作に打ち込む友人が沢山いて「彼らには勝てないな」と当時思って。あとは僕がクリエイターとして最前線に立つよりも、彼らを後ろからサポートしていく方が貢献できるんじゃないかという思いもあって、卒業後にクリエイターではなく社会人の道を選んだという経緯があります。
そして新卒でキヤノンマーケティングジャパンに2016年入社して、業務用の映像機器のカメラの販売や技術支援ということをやってきました。4年くらい映像畑にいたあとに、転職を2回しましてミクシィから今はスタートアップ企業のネクイノという企業にいます。最近は人事をやりつつ、会社を紹介する映像の制作や社内オンライン配信のテクニカル面を担ったり、休日に友人の展示制作で、映像技術面を協力するみたいなこともやっています。

ミクシィ以降のキャリアでは組織作りの方に注力しています。企業として成果が出るみたいなところまでを考えて、ビジネスとしてのコミュニケーションをつくっていっています。今は完全にフルリモートの体制なんですけど、SlackとかZoomとか今現在はビデオチャットみたいなものがメインですが、今後はバーチャルな空間とか様々なツールや技術が出てきているので、リモートでのコミュニケーションってさらに重要になってくるなと思っていて。そういった中でチームをどうつくっていこうかということを考えている人です。
総じて言えるのは、人事という立場から事業をやっている立場を支援する側として、コミュニケーションを使って個人と組織の良い関係性をつくっていこうというところが自分の軸になっています。

元々クリエイターとして制作をしてたり、ダンスや役者の友人が多いという立場で、身体表現に興味を持ちつつ会社でコミュニケーション設計をしている人として、鄭さんにも質問していければと思います。

社会をどこに想定しているか・どの社会にアプローチしようとしているのか

───社会とは───

秋山:今回「社会とダンスのミーティングポイント」というトークタイトルにしまして、社会の中でダンスが生活の中にない人は多分沢山いて、そういう人たちとの接点を見つけることだったり、そういう人たちから見て私たちってどうなんだろうみたいなことを、ダンサーではないお二人と一緒に考えて話せたらいいなと思います。
まずお聞きしたいのは、すごく大きいこと聞いてしまうんですが「社会」ってなんなんですかね。

:社会って言葉自体の本来の定義的な意味としては、人間が集まるまとまりとか、特定の属性を持った人たちのまとまりという意味だと思うんですよね。でも僕が社会をどう捉えているかでいうと、その中で起きたことに責任を取れる、もしくは影響を及ぼせる範囲を社会≒活動範囲として捉えている。そのために必要なことをやるかな。その町の/社会の/コミュニティの名前を使うっていう時に、ある種の責任を伴うと思っていてあんまり無責任になれないなと。逆にそっちの方面ばかり考えています。

秋山:鄭さん自身が舞台芸術の表現者出身という経歴ではないことが大きいんだろうなと思うんですが、おそらくいろいろ手段がある中で、今ダンス使ったらベストなんだろうなという考えで活動されているんですよね。

野村:「枝光まちなか芸術祭」でもコンテンポラリーダンスの使いやすさが、「遊ぶ」というところととてもマッチしているからコンテンポラリーダンサーを沢山呼ばれたりしたのかと思うのですが、なんの狙いがあって結果その形になったんですか?

:「枝光まちなか芸術祭」は、商店街の方々に「やっていいよ」と許されたんだけれども、野外開催した時に商店街の方々から起こるアレルギー反応みたいなものがすごく怖かったんですよね。説明するけど、説明仕切れないわけじゃないですか。よくわかんない人たちがよくわかんないことするけど、ちょっと許してねみたいなことを説明するんですけど。
でも昼間の商店街で舞踏のパフォーマンスをやったんですが、意外とアレルギー反応が起こらなかったっていうのと、なんかよくわからないけど考えさせられたというような感想が多くあって。後から振り返ってみると、ダンスはやはりテキストを用いていないので受け取り方の間口が広い。なので、徐々にダンスプログラムの比率が増えていったというのはありました。
あと、半分くらいは毎年来るアーティストにしているんですよ。じゃないと意味ないなと思って。毎年この時期になるとこの人たちが帰ってくるということにしないと、集客を目的にしていたわけでもないので。アーティストにとっては、普段活動しないフィールドで見てもらうことでどういうことが持って帰れるか。商店街の人にとってはそういう人たちと接することによって非日常を味わっていただく。あとは僕の見たい枝光本町商店街の景色をつくる。その3つを成り立たせるためにやっていたので、お客さんに関しては正直どうでも良くて(笑)。その景色のためのひとつの装置と思ってやっていました。なのでお客さんに椅子運んでもらったりとか結構過酷な観劇環境だったりとかしましたけど、楽しませるっていう自信はあったので「絶対楽しいからおいでよ」って言う感じでしたね。

野村:ダンサーと話をしていて思うのは、社会に寄せようと結構頑張っているんだなと。そういう時に、こういうアレルギー反応とか、「伝わるのだろうかこれは」みたいに不安に思う人が多いのかなと思うんですけれど。(受け取り手も)芸術知ってる/知らないとか、理解する/しないとかじゃないな、知識だけじゃないなと。伝わる人には伝わるし、分かんない人は分かんないと言うか、受け取る人を選ぶなと思いますね。

:自分が社会をどこに設定しているか、というのが重要だと思っていて。その社会に自分がフィットしていくことを考えなきゃいけない。そのための方法は別に舞台芸術前提である必要はないじゃないですか。先に自分を知ってもらうという方法もあると思いますし、「自分の作品は社会に認められないから」と思うよりまず、自分がどの社会にアプローチしようとしているのかということを考えないと切ないなと思います。

秋山:自分がフィットしたい社会を想定しつつ、アーティストとして自分のやりたいことを明確にしていく、という両方からの目線を持てる人ってなかなか難しいんじゃないかなと思います。だから、「これって貴方から見たらどうなの?」とか自分が見てほしい人に聞きにいくということを私はよくするんですけれど。

野村:これはめちゃくちゃ白井さんに聞きたいんですけれど、アグネス吉井(白井愛咲さんのダンスユニット)の活動はどういうアプローチでああいった作風になっているんですか。

白井愛咲(以下、白井):(アグネス吉井の作風が)一般受けしないだろうなというのはもう、3〜4年やってきて本当に分かってきて(笑)。マニアックすぎるというのは自分たちでも思っていたんですけれど、Instagramとかだと面白がってくれる人がちょっとはいるなと。遠くの国の誰かとか、現代美術好きの人とか、すごい少ないけれどいろんなところに面白がってくれる人がいるなというのが体感として分かっているので、その人たちに届ける方法をなんとか考えようという感じです。大体の人はスルーするんだけれど、届くきっかけさえあれば刺さってくれる人がちょっとだけいるんだなと。そして届く人の数が多ければ、作風を面白がってくれる人が増えるということを信じてやっています。
バズったTweetには「街の中の色んな場所で勝手に踊っている」というキャプションをつけたんですけれど、もちろん「踊りじゃないんじゃない?」と言う人もいっぱいいるけれども、コンテンポラリーダンスとか見ない人も「こういうのは好きかも」って思う人がちょっとだけいるんだなって思いました。

野村:分かってるか分かってないかということよりも、面白いと思ってイイネするっていうのがいいよなと。そういう響く人は一定数必ずいるんだよねと。

白井:だから私にとっての社会って目に見える人とかでは全然なくて。私自身が社会に属しているのか属していないのか曖昧な感覚ではいるけれど、どこかに遠くに繋がれる人は点在しているみたいな。社会って結構もやのように広がっているイメージかもしれないですね。

野村:抽象度高い感じありますね。「どうやったら一般の人に届くんだろう」という時の“一般の人”の定義がすごく広くて、もっと細分化して捉えないとその“一般の人”についてもいろんな人いるけどねって思うことも多いんですけれど。そうすると、ふわっとしている捉え方で、ふわっと当てにいってふわっとしちゃう、みたいなことがありそうですね。

白井:本当にそういうことあると思います。だからそういう時に“地域”とかはっきりしている対象がいるとクリアになるからアプローチしやすいという場合もあるかもしれない。

野村:鄭さんなんかはもう具体的に地域に当てにいっていて、さっきお客さんはどうでもいいみたいなことも言ってましたもんね(笑)。

:(笑)
でも、お客さんが沢山来たところで採算は取れないわけじゃないですか。そこの経済考えるんだったら2.5次元とかを選んだほうが話が早いと思うわけで、そこをいいかげん諦めないと。どうしてもコンテンポラリーダンスで収益を上げようといわゆる“売れる”とか“食える”ということを考えた途端に、方法が少なくなるので、まあ視野が狭くなるよねということが多いと思うんですが。
そしてそれは表現手法として豊かなことだろうか、と思ったりもする。それなんであればルソーの「社会人と自然人」1) じゃないですけど、そこ(社会の一員としての自分と自己表現の欲求)のバランスさえ取れていれば、つまり「エミール」になれればいいんじゃないのと思いますし、あんまり固執しない方がいいなと思います。

前もってコミュニケーションが取れていることの重要性

───関係性───

秋山:話は戻りますが、そういった地域社会に向けたパフォーミングアーツの場であった「枝光まちなか芸術祭」で、舞踏のパフォーマンスを行った時に意外と驚かれなかったのは面白いことですね。

:商店街の方々とまずは僕がコミュニケーションをとっていて、「枝光まちなか芸術祭」の3日間は鄭くんがわがままをやるからねって許しを得ているっていうのがまずは大事で。もしそれがなかったら、お金引っ張ってきて→商店街にいくらか渡します→道路封鎖します→「何やってんだ!」になるわけですよね。
……あの、人間なので、我々は(笑)。分からないことはそりゃ怖いよねっていう。

野村:これって組織づくりの時でもこれめちゃめちゃ同じで。組織づくりに関わることってそこにいる住人たちに関わることだから、それこそ社内イベントやるとか、新しい施策を打ってやりましょうとか言った時に、僕の顔が売れてて「あいつはいいやつだ」って思ってもらえてることが大前提で。同じことやっても、「あいつはいいやつだ」と思ってもらえた状態でやっているのか、いきなりポッと出てきて「どうも野村です、じゃあ組織開発やります」って言ってやるのとじゃあ天と地との差があって。というか、そもそも後者だと成り立たないんですよね。そこを丁寧にやってかないと、結局人だしコミュニケーションだから。何をやるかが重要というよりも、そこに至るまでのプロセスが重要だなというは、今の話を聞いていてすごく思いますね。

:結果が同じでもコミュニケーション取れてる状況でやることと、取れてない状況でやるのって全然違うじゃないですか。現場に入っていないのに、急に現場にポンと来て、“正しいこと”を言う人がいて。その“正しいこと”に対してアレルギー反応が起こる。でも、現場で関係性を築いてきた僕が同じことを言うとアレルギー反応が起きない、と言うことがあるわけですよね。
そういう現場をよく見るので、それは非常によくないなと思いますね。僕たちが一番やっちゃいけないことだなと。

野村:逆に社会にアプローチする時に「その社会の人たちがどういう人か知ってますか」っていうのがすごい大事なんでしょうね。その人たちはどういう顔をしていて、どういう言葉で喋っててというのを理解しない限りそこに出すアウトプットって決められないよね。そりゃそうだよね怖がるよねと。積極的に自分が想定した社会と会話するということをしていかないと始まんないのかもしれないですね。社会の人たちを異国の人たちだと思って畏れちゃったり、どうせ伝わらないかもしれないと思っちゃうと。

白井:耳が痛いですね(笑)

:でもこれって、いわゆるダンスや芸術の世界だけで起きていることではなくて、いろんなところで起きていることだと思うんですよ。僕も違うフィールドで関係性を気にせずにおんなじようなことやってしまっているかもしれないし。だけど、舞台芸術をお仕事として扱う時は、そこにすごく気を遣うなっていうだけであって。

社会のための芸術・社会を想定しないダンス

───社会とのミーティングポイント───

秋山:とはいえ、「社会のための芸術」というフレーズを聞いた時にすごい私はゾッとするなと思っていて。アーティスト自身がある一定の社会を想定しなきゃいけないのかという問題もあるよなと。

:でもそれは選べばいいんじゃないですかね。

白井:届ける社会を選べばいいということですか? それとも、社会のための芸術にするかどうかから選べばいいということですか?

:後者です、後者です。自分がやっていることを必ずしも社会にフィットさせる必要はないと思います。

野村:僕の場合は、日々生活していると社会に向かっていくしかないんですけど、社会を意識しないダンスってあるんですかね。社会を想定しないダンス。

:おそらく残ってるダンスを見た限りではないんじゃないですか。ダンスの起源としてもそうだし、神に捧げるというのも社会のためではあるので基本的にはないと思います。でも今は全然あると思うんですよ。単純に別に誰に見てもらわなくても大丈夫っていうアーティストもいると思うし。でも中途半端な人もいるわけじゃないですか、「別にお客さん少なくてもいい」って言うけど映像は配信するし劇場で上演するという人もいたりすると思うので。
まあ自分の責任でやるうちはどちらかを選べばいいなと思います。

野村:自分の興味主体で突き進んで作品をつくっていて、「なんでそんなことやってるの?」と聞きたくなっちゃうアーティストから話を聞いたんですが、基本的に1人で実践してて成り立つパフォーマンス作品なのに近所のおじちゃんがたまに覗きに来てくれていたと言うことを後から知った時に、なんか嬉しかったと言っていて。その話を聞いた時、結果としてですけれど、やっぱり見てもらえて嬉しいってなるんだ、と思いましたね。

白井:チャットからの質問で「社会を想定しないということは、社会でないものを想定することでもある?社会の反対はなに?」というものが来ています。家で1人で踊っているということもそうかな。

野村:僕は社会は、どうしても“繋がり”だと思ってしまうので、社会じゃないものは“繋がり”を持たないものだと思うんですが。ただ、“繋がり”を切るのってすごい難しいと思っていて、つい油断したら誰かの顔を思い浮かべちゃうし、美味しいもの食べたら「あの人と一緒に食べたいな」と考えた瞬間にそれは社会に生きてるなと思うので。だから社会の反対ってすごい難しいなと僕は思いますね。

秋山:でもそれは野村さんの性格もありそう。孤独より繋がりを求める人種だなと思って(笑)。

:そうですね、分かりやすく言うとたぶん社会の反対は個、とか個人でしょうね。明確に言うと反対ではないかもしれないですけれど。社会でないものでの想定で考えると、その個を想定すると言うことになるので、より矢印が内向きに内向きになってくると思います。
で、一番分かりやすく言うと、やっぱり金取ったら社会と接点作ってるからそれじゃんとかね。お金取るということはどういうことなのかということを、やっぱりちゃんと考えた方がいい。それがたとえ自分たちの採算にならないとしても。

白井:それはすごく思います。アグネス吉井は、マネタイズをほぼしていないんですよ。投げ銭窓口は最近やっと設定したんですけれども、でも月額課金のシステムとかやっぱりどうしても抵抗があって。お金を取ろうとすると質が変わってしまうとか、自分たちのやろうとしていること自体が変わってしまうという感覚がすごくあります。
前半で出ていた「社会のためのダンス」でいいのか、「社会のためのダンス」と言うのはちょっとゾッとする、という感覚は結構お金と結びついているのかなという感じがなんとなくしましたね。Twitterに動画を載せるのはいいけれど、それをどうにかしようとした時にちょっとウッとなるというか。

:どうにかしようとするというのは、どうしようとするということなんでしょうか?

白井:それで仕事をもらおうとするとか、それで食べていこうとするとかするとウッとなりますね。
そもそも役に立たなくて、あんまり価値がないことを良しとしているのに、それを「お金を払ってもいいもの」にしようとしてしまうと、もう違うものになってしまうというか。その価値というのは、いわゆる金銭的価値とか市場価値とかですが、それが無いことが良いと結構強く思っているので。

野村:世の中的に価値があるものって、万人に価値があるわけじゃないじゃないですか。例えばアニメの商品に「俺は一銭も払いたくないよ」と思っている人もいれば、払いたいと思っている人もいるわけじゃないですか。だから等しく全てにお金をもらわない態度を良しとするというのもあると思うけれど、一概にお金を取るか取らないかだけで考えるものでもないと思っています。
全員が価値を感じるものなんてほぼ無いとすると、普通に何の気なしにお金を払う人もまたいるんじゃないかなと。
ビジネスの世界にいるからかもしれないですけれど、お金っていうものがそんなに悪ではなくシンプルに価値を持っていて、「見たい」と思うからお金を払うし「ありがとう」と思うからお金を払うよっていう行動だとすると、それを恐れる必要はないのかなと。

:それはすごく同意で、昨年クラウドファンディング3つくらい携わったんですけれど、やっぱり払いたい人は払うんですよ。良いと思ってお金を払う、本当にそれだけのことであって。そこにあんまり深く考えない方がいいなと思うんですよね。

野村:クラファンでお金を払った人の方の勝手ですよね、ある意味(笑)。

:そうそう、こっちは別に金額設定していないし払ってくれてありがたいけれども、お好きにどうぞみたいな形にしておいてもいいんじゃないかなと。
逆に、お金を払う人が3,000円なら3,000円の価値を認めるということ自体は、僕たちは否定できないので。

野村:あと、僕はこれまでカメラマンに触れ合う機会がすごく多かったんですけど、カメラマンって商業の活動と、自己表現とかライフワークの活動をすごい明確に分けている方が多くいるなと思っていて。ダンサーは、それって分けづらいんでしょうか。これは仕事である、これは自己表現であるとかって。

白井:それはダンサーも分けている方が多いと思います。ダンスの先生としての仕事と、作品づくりと分けていたりとか。

秋山:依頼されたワークショップは仕事として行くけど、自主公演は自己表現の場としてやるとか。でも、その中間も多いですよね。クライアントワークっぽいけど自分の作風が求められることも多いので。

今の社会においてダンスはなにを担っているんだろう

───ダンスがない社会とは───

秋山:私たちの世界からダンスがなくなったらどうですか? この問いは、逆にダンスが今ある意味を考えることになるのかな。

野村:すごい一般人感覚からですけど、僕はカラオケで踊れなくなるのが嫌です。みんなでわいわい歌って踊ってみたいにできなくなるのが嫌だから、感情的には今パッとカラオケが思い浮かんだ。

白井:すごく重要かもしれない……。

:近いことは起きたじゃないですか、風営法でクラブが一斉摘発されたでしょ。
ダンスが無い世の中なのか、ダンスを辞めろと言われた世の中なのか分からないですけれど、どうにかして人は踊ると思います(笑)。規制がかかった時に、クラブでお客さんにうどんを渡して、「これは踊ってるんじゃない、うどんを踏んでいるんだ」みたいなこともあったので。たぶん踊ることを辞めることはできない。

野村:確かに、規制されればされるほどみんな踊るんじゃないかなという感じはしますね。

:もし規制という形であればですけれどね。そして何かしらの闘争が起きますおそらく。でその後にすごい先鋭的になっていく気がします。

野村:でも、きっと総じて無くならないですよね。
僕すごい恥ずかしいんですよ踊るの。理性を飛ばさなきゃいけない感覚がすごくあって、「普段やらない動きをやってる俺」という俯瞰視点が邪魔してくる。だからダンサーとか見るとよくやれるなって。
だからちょっと理性を飛ばした時、例えばクラブでお酒が入ってとか祭りでとか、それでみんな盆踊りとか踊ってみんな踊る空気だったら俺もやるじゃんみたいな。そういう時にはみんな踊るんだと思うんで。みんなダンス知らないし、普段見ないとか言うとは思うんだけれど、そんなことはないと思う。ダンスの定義にもよるけれど。

:そうですね。僕は絶対踊らない人ですっごい嫌なんですよ、すっごい恥ずかしい(笑)。急に視点がここ(俯瞰)になっちゃうんですよ。でもダンスはすごい好きなんですけれど。
ちょっと話は変わるんですけれど、僕は劇場って解放の場だと思っていて。普段見れないようなものとかを見て、自分の精神を解放できるのが良い劇場だと思っているんですよね。その感想を話し合ってというところまでも非日常だとも思うし、もしかしたらお酒が飲めるのかもしれないし、アーティストと交流できるのかもしれないし、そういうところも全部ひっくるめて劇場は解放の場である必要があると思っていて。チケットをお金払って買って、座って、作品見て、帰る、だけじゃない場所である必要があると思っていて。
で、ダンスって一種のなにかしらの解放だとも思うので、ダンスがなくなったらたぶん、そうじゃない身体的な解放の方法が生まれていたんじゃないかなと思いますね。ダンスっていう方向じゃなかったんだとしたら。だからもしかしたら、すごい攻撃的な生き物だけになる可能性もあるしね。
例えば神様に近づく儀式、それこそスーフィズム2)のずっと旋回するやつとか、あれもダンスって言っちゃっていいかどうか分からないけれども。ああいったものが生まれなかったとしたら、神様に近づくために戦おうよとなっていったかもしれないし。そういう別の解放の仕方が生まれていたかもしれないなと思いますね。
「私たちの世界からダンスがなくなったらどうですか?」という問いって、今の社会においてダンスはなにを担っているんだろう、ということだと思うんですよ。それを考えていくのはすごく楽しいですね。

クロストーク

4人でのゲストトークから休憩をはさみ、参加者全員でのクロストークへ

※後半のクロストークは、ゲストスピーカー以外にもトークルームに入室いただき井戸端会議となりました。トークのポイントとなったキーワードを箇条書きで掲載します。

───ダンスとの向き合い方

  • 生活の中でダンスを続けていきたい
    • ただ野原で楽しく踊っていることはできないのか
  • 自分にとって踊りは精神安定剤
    • 旅先で踊ったエピソード
    • 「お客さんにプロにしてもらった」と感じた
  • インドネシア(バリ舞踊)では、ダンスはお金になるかどうかではなく、どれだけ献身しているか
    • 有名な先生ですら踊りでお金を稼ぐ仕組みがバリ島には殆どない
  • 神様のためだけではなく、教育や儀式、時間に区切りをつけるためのダンス
  • 詩と散文
    • 日常的なもの=散文
    • 非日常的な、魔術的なもの=詩
      • ダンスは「動きの詩」と言ったりする
    • 踊る理由は、非日常的な・魔術的な身体を無意識的に望むからからかも
    • カイヨワ3)によると競争社会に生きているから競争的な原理が働いているもの(スポーツやゲーム)を求めがちだが、日常では出会えない魔術的ものも信じているからダンスを求めることもあるのかな

───プロとは

  • お金をもらっていたらプロなのか?
    • プロの線引きをしているのは、見ている方かもしれない
  • プロの語源は Profession:神に誓って
    • はじめは牧師や医者に対して使っていた
    • 「公共の利益に貢献できる人」がプロ =西洋史観
  • 「プロかどうか」「プロならばこうしなさい」は考えなくていいと思う
  • 自称としての「プロ」を使い分ける
    • 自治体の人に説明する時は安心させるために「プロです」と言う
  • ビジネスでは「プロかどうか」なんて議論になることがないのに、不思議
    • アートをやっていると「プロだから◯◯でしょ」って言われがち
    • できればとらわれたくない
      • 子供が遊んでいるようなこととあまり線引きしたくない
    • アートの活動をしながら「私はプロじゃありません!」って言うのはありなのか?
    • 究極のアマチュアリズムでもプロはありえるんじゃないか
  • 肩書きに縛られる
    • 肩書きは利用するもの
    • 社会に入っていく上での自分の役割を示すもの
  • ロシアで演劇を勉強してきて見えてきたもの
    • ソ連は特殊な国
    • 神というもの(ロシア正教)がなくなってしまって、生産性・効率を追い求めていく共産主義の流れ
    • 唯物論的な世界で、神と芸術の繋がりが絶たれて科学的に芸術を解剖していくことが盛んになる
      • ○時間の授業を乗り越えた者がプロの資格を得る
    • スタニスラフスキー・システム4)では「子供が遊ぶように」を重視
      • 毎回同じことをやっても新しいことのように感じ続ける、それがプロフェッショナルだ
      • 遊びのルールを詰め込まれる(バレエ、フェンシング、演技 etc.)
    • 言われたことを高いレベルで実践できる職人的な側面(日本で言う“プロ”)と、持っている技を応用して遊べる側面(ロシア的な“プロ”)が両立できたらおもしろい
    • 同じシステムの中で芸術を学んだ人が輩出されるので、嫌でも孤立できない仕組み
  • 社会が違えば芸術の形も違う
  • 中国の劇場はいま、規制がシビア
    • 政府が審査していないものは上演できない
    • インターネットでも自由に見られない

───封建主義の論理/資本主義の論理

  • アートってAIには理解できない分野 =人間ならでは?
  • 国や自治体の人は資本主義ではなく、封建主義の考え方で動いている
    • 効率や生産性を求められない
    • 人類の歴史は封建主義のほうが長い
    • 資本主義=効率、生産性、買われる/買われない
    • 封建主義/資本主義の文脈に、舞台芸術をどう接続していくか
    • 資本主義の市場は、○○を買う理由・空気感をみんなが一生懸命つくっているだけ
      • それをアートに対して適用すると「アートってイケてるからみんな買おうよ」というダサい流行らせ方になる
        • お金を払うこと自体は別にダサくないけど、その空気感をみんなで作って資本主義に迎合していく感じがダサいっていうのはわかる
    • その土俵で勝負してしまうと勝機はない
      • バランス
      • どの社会を選ぶかという話につながってくる

───差別化

  • 新自由主義とアート
    • アーティスト個人が社会のことを考えているにせよいないにせよ、アートの「他の誰かがやったことのないものを探す、何か新しいことをやる」というマインドが新自由主義と親和性が高すぎるのではないか?
  • 今まで誰もやったことが無いことを探して実践しているアーティストはいるのか? → いる
    • コンテクストゲームを勝ち抜くための戦略をたてている人
    • 同時代での椅子取りゲーム、「この分野ならこの人」を確立する
    • 内発的な動機が薄いと、社会的なこと(時代性/系譜の更新/差別化)と自分がやりたい表現とのバランスをとって作品のコンセプトを立てていく
    • 勝たなきゃいけない、売れなきゃいけないプレッシャー →「戦略的に表現活動のコンセプトを立てなきゃ」
    • 楽しくなくても、例えば助成金申請のために差別化を考えざるを得ないこともある
  • ビジネスだと差別化は楽しいことなのに
    • それは直接お金につながるからではないか?
    • お金に直接つながらなくても「自分たちのサービスは良いはずだ、価値をもたらすはずだ」というビジネスマインドもある
    • 差別化を語る言葉には熱がこもる
  • アートやダンスにおいて差別化を図ろうとすると、競争原理になってしまう
    • 他の人と比べて自分のダンスが良い/悪い
    • ダンスで心を満たす、楽しい、という世界観とは異なってくる
  • ビジネス業界にも「アート思考」
    • 「相手よりも自分はこう」ではなく「相手はこうだが、自分はこう」という相手を蹴落とさない方向になってきている
    • モノ売りでなくコト売りになってくる流れでは、競合を蹴落とすのではなく共存を目指した方がいい
  • 研究者のモチベーション
    • 他の人がやってない研究をやる動機は、競争原理だけではない
    • それぞれが違う研究をすることに意味がある
    • アート・ダンスでも結果的に他と違うことをやっている人は、それによってアートの領域や概念を広げたいという研究者マインドに近いモチベーションなのでは
    • だったら良いなと思うが、資本主義原理に乗っかった差別化はあまりオススメしない
    • 自治体や国(封建主義の論理)の中で差別化(資本主義の論理)をするとなると、そりゃ立ち行かない

───アートアレルギー

  • 日本の人たち「アート」「ダンス」「アーティスト」「プロ」「劇場」とか言わない方がいいのでは
    • 輸入した概念をそのまま使ってもフィットしない
  • アートアレルギーやダンスアレルギーにどう向き合っていくか
    • 「アートとかダンスとか無理」となる人たちの中に、アートやダンスの肩書きもなく飛び込めたらいいなとは思う
    • 遊びの中で、結果的にこれって踊りだったねと言えるようなものになったらいい
  • アーティストが社会を怖がって「社会アレルギー」になっているのでは
    • アートアレルギーも社会アレルギーもいる、互いに敬遠していたらそれは結びつかないよね
    • 分かってくれるアートの人も、分かってくれる社会の人もいるはず
  • 双方にアレルギーが出る/出ないは当たり前
    • あまり考えすぎない方がいい
    • 自分の活動範囲でのアレルギー反応には責任をもつ→説明する・関係性を作る
    • 考えすぎない方が良いとはいえ、突然自分たちの表現を見せてしまうのは暴力だと思う
  • 最初はコンテンポラリーダンスに対してアレルギーが出たが、「知りたい」と思って自分から歩み寄り、そこに寄り添ってくれた人もいたので、埋められた
  • 見たことあるかないか、知ってるか知らないかは、アレルギーに必ずしも関係しない
  • フラメンコを初めて見て、涙が出たことがある
  • でも、一生見なくなってしまうかもしれない。「それくらいのことをしている」という自覚は持った方がいい
  • 分断もあるが、つなげる力もある

───社会とダンスのあいだで

  • どれだけ多くの人に「こいつがいてよかったね」と思ってもらえるか、というモチベーションでいる
    • そういう人がこの業界の中にいて欲しい
  • 「ダンサー」と「社会」の直接的な関係になってしまうから難しい
    • 間にドラマトゥルク、通訳、翻訳できる人が絶対に必要
    • そういう人がいないからアレルギーをこじらすのでは
      • 「大丈夫だよ」と言ってくれて、現状共有ができて、「でもこう見られてるよ」と客観的な意見を言ってくれる人が必要
    • 違う言語で喋っている。それぞれのシステムや文意を通訳する必要がある
    • 直接ぶつかると危険
      • 互いに「言い方ってあるじゃん」というような齟齬や衝突が会社内でも起こる
      • アウトプットの質に関わってくる
    • アレルギーというか、リスペクトがないという話でもある

(1) 社会人と自然人:18世紀の哲学者ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)が、著作『エミール』の中で述べた概念。自分のためだけに生きる「自然人(オム・ナチュレル)」と社会全体の中で自分を位置づける「社会人(オム・シヴィル)」という相対立する二つの人間像を提示し、この調和の取れた人間を育てることこそ人間の幸福の障害を取り除くための大きな鍵を握っているという。
参考図書:ジャン=ジャック・ルソー『エミール』

(2) スーフィズム(Sufism)の旋回舞踊:イスラム神秘主義(スーフィズム)の信者が、神と交信するためトランス状態になるまで、スカートをはいて旋回する踊り。

(3)ロジェ・カイヨワ(Roger Caillois):20世紀のフランス思想家であり、著書『遊びと人間』の中で、遊びの独自の価値を分類し説明した。彼は、遊びのすべてに通じる不変の性質として競争(アゴン)・運(アレア)・模擬(ミミクリ)・眩暈(イリンクス)を提示し、これを基点に文化の発達を考察した。
参考図書:ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』

(4)スタニスラフスキー・システム(Stanislavski System):ロシアの俳優・演出家の、コンスタンチン・スタニスラフスキーが提唱した演劇理論。科学的な近代俳優術として、日本の新劇界をはじめ、全世界の俳優教育に計り知れない影響を与えた。
参考図書:コンスタンチン・スタニスラフスキー『俳優の仕事』

編集者メモ

社会とは、ダンスとは、そのミーティングポイントとは。

今回はトークタイトルを「ダンスと社会のミーティングポイント」とし、ダンスを“すること”を本業としていない、むしろ踊ることは恥ずかしいと仰っていたゲストのお二人にお話を伺いつつ、現代社会におけるダンスの内と外の双方からの交点を探るような井戸端会議ができたように思います。要約してしまえば「社会/他者/経済/仕組みとの折り合いをつけて、うまく自分の居場所を選んで/探して/作っていけばいいんじゃないの」というようなことになるのかもしれませんが、3時間に渡る今回の時間の中で、各々の具体的な体験と思考が交換されとても充実した時間となりました。
即興的にやりとりをしているトーク本番ではなかなかそこまで思考が働かないのですが、イベントレポートを仕上げる過程で、その場で話されていたことの文脈やそれぞれの歩んできた背景まで掴み取れた気がして、とてもいい時間でした。(あぁなんて浅い返答しかその場でできないんだろう、私!)
ますます「今の社会においてダンスが担っているものはなんなのか」と、最後に問いかけられた質問に対して、一般的な回答ではなく、手触りのある自分の言葉を使った答えを考えていきたいなと思いました。それは、私にとってのダンスに対しての祈りのようなものになるのかもしれませんが……、よく考えていくことを辞めないように、問いかけ続けたいと思います。

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